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2013/09/15

まさかこんなものが日本特有の文化だったなんて・・・

先日、台湾人の友人に電気あんまをしたのですが(何歳だお前は)、なんと、やる前に説明をしても全く伝わらなかった。「ほら、小学校の頃に教室の後ろのほうで男子がふざけてやってただろ!」と説明しても伝わらず。実際にやってみせたのだが、そんな遊び知らんという。で、気になってWikipediaのページを参照してみると日本特有の遊びであることが発覚!知らなかった・・・!!
電気あんま(でんきあんま)とは二人で行う日本特有[要出典]の遊びであり、一方がもう一方の股間に足を入れぐいぐいと揺らすものである。行う際に足を入れる側がもう一方の両足を掴んでよりしっかりと股間に足をあてがうことが多い。
でもwikipediaにそう書いてあるだけだし、その根拠を示す資料も提出されていない。本当に日本特有の遊びなのか謎である。ということでググってみたところ・・・スラング辞典Urban Dictionary.comで電気あんまの項目を発見!英語では"motorcycle"と表現するようだ。この項目の7番目の定義に目を通してみると・・・。
the act of grabbing the legs of a person like a handle on the motorcyle. and putting the foot on the crotch of that person shaking your leg violently. this will cause soreness of the testicles which will last for at least 2 days
「一人の両脚をバイクのハンドルのように抱え、その間からその人物の股間部に当てた足を乱暴に揺する行為。睾丸部に2日は引かない痛みを引き起こす。」と書いてある。海外の電気あんまはかなりハードコアな遊びのようである。

そんなエクストリームスポーツ化しそうな海外の電気あんまの映像がこちら。海外の電気あんま師たちの間では複数プレイが定番のようですね。さすがエクストリーム。


こういう日常的なところに潜む異文化ってなかなか気づきにくいですね。気づけて良かった。いや、でもタイトルと記事の最終的な内容が一致してないなwまぁいいや。

2013/09/06

8月に読んだ記事まとめ

ネットの記事を雑誌のように編集してくれるiPadで大活躍のアプリFlipboardがつい最近新しい機能を発表したので使ってみた。読んだネットの記事をパソコン上でも編集して雑誌化できるようになったこの機能。詳しくはこの記事に色々書いてある。

Flipboard Magazineのウェブ版で「キュレーションのキュレーション」が始まる
http://lifehacking.jp/2013/07/flipboard-magazine-web/


今までは、読んだ記事の中で気になったものをEvernoteに保存していたのだけど、それと併せてしばらく試しに使ってみることにした。ということで8月に読んだ記事&動画のまとめを公開。こうして見ると思ってた以上の数の記事を読んでいることに気づく。全くネットの記事なんて読んでないと思ってた。面白かった記事だけまとめたので、実際にはこれ以上に読んでます。

ネットの海8月号(創刊号) http://flip.it/u5QSP

2013/08/18

俺たちのジャッキー・チェンは嫌われ者だった

日本男児なら誰もが好きな(だよね?)ジャッキー・チェン。オーストラリアに滞在していると、初対面の香港人や台湾人から「日本のアニメ好きだぜ!◯◯面白いよね~」と言ってもらうことがよくあるのだが、それと同じノリで俺もジャッキー・チェンの話をすることがある。2年ほど前には関東と関西でジャッキー・チェンの主演100作品突破記念とキャリア50年を記念した「大成龍祭」というイベントが開催され、六本木のTOHOシネマズでは約3ヶ月の期間に渡って、毎週日曜に過去のジャッキー作品を1000円というお手頃な値段で上映していた。ジャッキー映画といえば、子供の頃に日曜洋画劇場で「ポリス・ストーリー」や「シティハンター」を見たのを覚えているが、このイベントで鑑賞した殆どの作品、たとえば「ヤング・マスター」や「サンダーアーム」といった名作や、特に「笑拳」をはじめとする「拳」シリーズのほとんどの作品は見たことがなかった。中には当時日本では公開されなかった作品もあり、本邦初公開として上映された。昔からのジャッキーファンにとっても良いイベントだったと思う。俺はジャッキー好きの友人と毎週足を運んだのだが、日曜日の19時上映開始という遅めの時間にもかかわらず、毎回そこそこの集客数だった。

最近だと、キリンビール「のどごし生」の一般人の夢を叶えるCM企画にオーディションで選ばれたサラリーマン男性がジャッキー・チェンとのCM出演を果たし、そのCMとメイキング映像が感動的だと大きな話題になった。





多くの日本人(特に男性)にとってジャッキー・チェンはやっぱりレジェンド的存在なので、こっちで出会う香港人や台湾人に「俺はジャッキーが好きだぜ!」と相手の文化の偉人を褒めてあげるようにしているのだが、どういうわけかジャッキー・チェンが好きだという香港人や台湾人に出会ったことが一度もない。この話をした人はみんなジャッキーが嫌いだという。

ジャッキー・チェンは昔は人気があったそうだが、今は嫌われているらしい。なんでも、妻子がいるにもかかわらず色んな女性と浮気をし、その度にセックススキャンダルが発覚するからだという。
そこで、「個人としてのジャッキー・チェンのふるまいは確かに良くないかもしれないけど、それでもアクションスターとしてのジャッキーはレジェンド的存在でしょ?それでも嫌いなの?」と尋ねてみるが、それでも「うーん・・・やっぱり嫌い。」とみんな苦い顔をするのである。解せないなぁ~と思うのだが、その辺りはやはり家族を大事にする中華系民族的価値観の表れなのかな?と考えることにしていたのだが、先日やっとジャッキーが嫌われている本当の理由がわかった。

How Jackie Chan Became The Most Hated Celeb On The Chinese Internet
http://www.buzzfeed.com/kevintang/jackie-chan-offends-chinese-netizen

要は政治的理由だったのである。この記事を読むとよくわかるが、どうやら中国本土では、ジャッキー・チェンは「五毛(英語では"five pence")」と呼ばれているようだ。五毛とはお金のことだが、一般人を装い、政府や自治体からお金を貰ってインターネット上で政府を擁護・賞賛したりプロパガンダを広める意図の書き込みを行う人を指すようで、その報酬が一件五毛(10毛=1元=0.5元)であることに由来しているそうだ。中国政府の情報統制の一つで、ネット評論員、世論誘導員とも呼ばれているとのこと。

五毛については、このあたりが詳しい。

五毛ーー中国ネット上の不思議な政府の飼い犬
http://blog.livedoor.jp/alexwangyang/archives/51656516.html

ネット用語から読み解く中国(11)「五毛党」(続)
http://www.toho-shoten.co.jp/chinanet/cn201106.html

記事によると、ジャッキー・チェンは故郷の香港について、「今やデモだらけの街と化した」と発言したり、中国本土については「自由を許しすぎると香港や台湾のような酷い有様になってしまう。中国市民は統制下に置かれるべきだ」と発言しているようだ。こんなこと連発してたらそりゃまぁ嫌われるよなぁ・・・wこの記事を読んで日本でもたまーに(本当にたまに)ジャッキーの日本に関する政治的発言が話題になるのを思い出した。
・・・確かに、わざわざ自分のイメージが悪くなるようなことを国外(日本)にジャッキー自ら広めるわけないよなぁ。だから、ジャッキー・チェンは日本ではいつまでもカッコイイ、レジェンドのままなのだ。

それにしてもやはり、中国という国(そしてその文化圏)は非常に面白い。こんなことを言うと現地の人々の反感を買うかもしれないが、こうした事実を客観的な現象として傍観するのは非常に興味深い。

ネット用語から読み解く中国(11)「五毛党」(続)では中国のある芸術家が実際に五毛党として活動している男性に行ったインタビューの日本語訳を掲載しているが、その内容は示唆に富んでいる。

問:典型的な“世論誘導”のプロセスを教えてほしい。

答:典型的なものはない。あまりにも数が多いから。例を挙れば、例えばガソリン値上げで、次のような通知を受ける。「ネットユーザーの感情を落ち着かせ、大衆の注意力を転移させよ」などだ。翌日ニュースが出れば、ネットでは国や石油会社を罵る書き込みばかりだろう。そこで我々が登場する。石油や不動産の値上げに対しては、我々は焦点を曖昧にし、人々の注意力を転移させる。
成功した例を紹介しよう。人々が値上げに対して政府や石油会社を罵っている時、私はあるIDで「どんどん値上がりすればいいじゃないか。どうでもいい、どうせあなたたち貧乏人は車なんて乗れないんだ。これで、道路は金持ちだけのものになる」などと書き込んだ。ネットユーザーを怒らせるのが目的だ。大衆の石油価格への怒りが自分に向かうようにした。これは本当に効果があった。自分もIDを変えて自分を罵り、多くの人が注目するようになり、自分を攻撃する人がどんどん増えた。こうして徐々にニュースコメントのページが自分の発言で埋め尽くされるようになり、人々が論ずる内容が石油価格から自分の発言へと変化、こうして目的を達したのだ。

問:ほかのやり方は?

答:いろいろなやり方がある。言うなれば人の心理を弄ぶ感じだ。現在のネット市民は、以前と比べて思想的にも進歩している。以前は何が起きても、マイナスの情報は伝わるのが早く、人々は信じていたが、現在はこれはヤラセではないか、と疑うような人が多くなった。

問:この仕事は中国の世論誘導にどの程度の役割を果たしているか?

答:役割は小さくないと思う。正直なところ、中国の大部分のネット市民は馬鹿だ。誘導してやらないとデマを信じるようになる。今回の塩事件がいい例だ。

中国のメディア関係者と交流する際、しばしば彼らが口にだすのは、「日本のメディアはなぜ、世論をあおるだけで、もっと世論を正しい方向に導こうとしないのか」ということだ。民衆は導かれるべきものであり、メディアはその手段なのだ、という意識が中国のメディア関係者には根強く残っているようだ。ネット評論員=五毛党もいわばその延長線上にあり、それゆえ、前述のような発言が出てくるのだろう。

世論に良い悪いがあるのかという疑問は別として、五毛党による世論誘導には、経済や社会の混乱を防ぎ安定を保つという、政府の直接的な利害を抜きにした狙いもあるというのが興味深い。その意味では、世論の誘導には「功罪」と呼ぶべき側面があるのかもしれない。

日本でも、数年前にステルスマーケティング(通称ステマ)と呼ばれるマーケティング手法が悪質だとして話題になった。レストランや出会い系サイト、オークションサイトなどの経営者が金を支払い、レストラン評価サイトやブログなどで一般利用客を装って都合の良い感想コメントを書いてもらい、それを読んだ人が利用したくなるように仕向けるというものだ。それが政治に関連した内容かどうかというだけの違いでしかないという見方をすれば、日本にも中国の五毛党と同種の人間が多く存在すると言えるだろう。しかも、日本の場合は、五毛党のように政府による中央集権的な誘導ではなく、個々の一般企業が分散的にこうしたマーケティングを行っているため、五毛党による書き込み以上に見ぬくのが難しいと言える。インタビューの中で、五毛党は「中国の大部分のネット市民は馬鹿だ」と発言しているが、日本人がそれと同種のステマを見抜けているかどうかは非常に怪しい。実際、「利用する人たちは情報源を確認せずにデマを信じて拡散する馬鹿の集まりだ」という意味合いで、ツイッターを「バカッター」と揶揄する人たちがいる。五毛という中国特有の現象から我々が学べることがあるだろう。


それにしても、ジャッキー・チェンは本当に五毛党なのだろうか。上に挙げた記事ではそれは言及されていないが・・・。

中国では嫌われ者かもしれないけど、それでも俺は好きだよ、ジャッキー!

2013/08/11

世の中才能で溢れてるんだなぁ

昨晩、かなり久しぶりにYouTubeで動画を漁ってみた。
動画自体は他愛もない、暇つぶし程度に見るような面白動画だったのだけど、見ているうちに「世の中には素晴らしい才能を持った人がこんなに沢山いるんだなぁ」と、謎の感動を味わってしまった。
とりあえず面白かった動画を紹介しよう。


FUNNY GAMING MONTAGE

ニコ動にもよくあるゲーム実況。動画中ではFワードなど汚い言葉がバンバン出てくるのだけど、実際ゲームをやってる時ってこんな感じだよなぁと思いながら見てると意外と勉強になる。とにかく笑える。

Steve Jobs vs Bill Gates. Epic Rap Battles of History Season 2.

スティーヴ・ジョブスとビルゲイツのラップバトル。歴史上の人物をラップで闘わせるという面白いアイディア。他にもダース・ベイダー対ヒトラーなど。

YouTubers React to Japanese Commercials (Ep #9)

日本のTVコマーシャルを見た外国人の反応。こうして見ると日本のCMがいかに変かってことがよくわかる。

Teen Speaks 20 Languages

17歳にして20の言語を喋る少年の動画。これにはかなり刺激を受けた。

90 Degrees Room Prank

弟の部屋を90度回転させるイタズラ。

こういう動画を見ていると、よくこんなアイディアを思いつくなぁと驚かされる。世の中には自分には想像もつかないような面白いことをやっている人が沢山いるんだと妙に感動してしまった。この世界は才能に満ちているんだなぁ。

音楽や絵画のような、特に何かしらの創作活動に携わる人たちに対して思うのだけど、頭のなかにある目に見えないアイディアをこういう風に具現化できるのは本当にすごいと思う。まず行動力が凄い。俺なんて「はらへったなー→ご飯作らないと・・・」の時点で我慢する方を選ぶのにw 芸術的センスが皆無な上に手先が不器用だから、絵を描いたり楽器を弾ける人はそれだけで尊敬しちゃう。

そしてもう一つ凄いと思うのは、インターネットのおかげでこうしたすごい人たちに簡単に出会えるということ。書籍「FREE」に「物が溢れている時代だからこそ、それを贅沢に無駄遣いすることでそこから新たな価値を創造することができる」みたいなことが書いてあったけど、これは本当にそうだと思う。YouTubeみたいにガンガン動画をアップロード(しかもタダで)できるようなサイトが無ければ、個人の才能や天分が人々の目に留まったり、それが相乗効果を生み出すようなことは無かったはず。

他に海外の面白い動画があったら教えて下さいw

2013/08/05

「文章を『書ける人』と『書けない人』のちがい」という記事を読んで

数日前に読んだ、「文章を『書ける人』と『書けない人』のちがい」という記事。なかなか面白い記事で、共感する部分が多かった。Facebookにリンクを貼ったのだけれど、他の多くの方にとっても面白い内容だったみたいだ。自分のブログ記事の書き方について思い返しながらこの記事を読み進めたのだけど、記事中には、特に今まで意識していなかったけれど、言われてみれば確かにそうだと納得する部分があった。
特に、この部分。
文章を書くという仕事は、ゼロを1にする作業だと思われがちだ。

小説や脚本、ゲームシナリオなどの創造的な文章ならばなおさらだ。しかし実際には、文章を書くというのは100を1にする作業だ。文章を書けるかどうかは、このことに気づけるかどうかだと思う。作家にせよ、ジャーナリストにせよ、それこそアルファブロガーに至るまで、きちんとした文章を書ける人はみんなこのことに気づいている。

よく思い出すと、小学校の頃によく書かされた読書感想文は、まさにゼロを1にする作業だったなーと思う。小学生なんて大した知識も人生経験も持っていなければ、論理的思考能力も無いに等しいわけだから、読んだ本の内容と自分の頭のなかにある知識や思索を関連付けて文章を書くことなんてできっこなかった。確か、原稿用紙4枚以上の分量を毎回書かされたと思うのだけど、800字詰めなら3,200文字、400字詰めでも1,600文字もある。それを何の武器も無しに書かなきゃいけなかったから、かなりキツかった。ひーひー言いながらやってた。段々とセコい真似をするようになって、全ての文章を「~だ。」のような形ではなく、「~でした。」、「~と思いました。」のようにわざと引き伸ばして書いたりして、1文字単位で字数を稼ぐことに苦心していたのをよく覚えている。行の最初の方のマス目で文章を終えて、次の行から字下げで新しい段落を始めて「一行分稼いだぜラッキー」みたいな。かなり苦痛だったからよく覚えてる。

でも今は、文章を書くことに対して全くそんな風に感じていない。字数のノルマが無いから当然なんだけど、普段から雑多な記事や動画や消費していて、それ以外にも考え事をすることがあるから、自然と文章を書くための材料がストックされていると思う。何かブログの記事のネタを閃いた時は、そうした過去のインプットの中から、どれを使えば自分の論理をうまく補強して、より説得力のある記事に仕上げることができるか・・・と考えることができる。そういった材料が無くても、今はググることもできるしね。そういう意味では、2ちゃんのまとめとか、どうでもいい動画とか、時間の無駄にしか思えないようなものでも役に立っているのかもしれない。そういう普段のインプットのおかげか、殆どの場合、出来上がった記事の分量は執筆前の予想より多い。質が良いかは別として。頭に浮かんだことをひたすら書いていたらかなりのボリュームになっていて(しかも脱線してたり)、あとから文章を削除したりすることもある。お喋りな性格だな~と書きながら思うことがよくある。
文章屋が仕事をしてるのは、キーボードを叩いてる時だけではない。
まず情報を集める段階がある。つぎに、集めた情報を組み合わせたり取捨選択したり……知識と格闘する段階がある。それから、情報をどのような順序で見せるか、文章の配列を決める段階があって、さらに文章の枝葉まである程度固めて……そこでようやく、キーボードに向かうことができる。文章屋がペンを握ったときには、もう作業の8割がたは終わっている。実際にキーボードを叩くのは、「文章を書く」という工程全体の5%ほどだ。

今の時代、特にツイッター登場以降、主にネットでの情報発信はほとんどがキュレーションで成り立っていると思う。キュレーションというのは、元々は画廊があるテーマで美術展を開くにあたって、存在する多くの作品の中からテーマに合ったものを選別して、全体が一つのメッセージ性を持った価値を生み出すようにそれらを効果的な順番で並べることを指す。今のネットの文脈で言えば、情報の収集・整理・再構築による新たな情報価値の創造。自分自身のブログの記事の書き方を振り返ってみても、これに沿っている。まず自分の言いたいことがあって、それを支えるためにアレコレの中からどれを引用しよう、どれと関連付けよう、どういう順番で表示しよう、これは必要あるかないか、蛇足にならないか、等々。やっぱり「100を1にする作業」だと思う。例えて言うなら、日本酒の酒造所が米の表面を削って吟醸や大吟醸にしたり、精肉加工場が皮をはいで身の部分だけにしたり、魚屋が魚をさばいて余計なものを切り取ったりするような。

自分のブログを振り返ってみても、執筆後の自己満足度が高かった記事や、特に気合を入れて真面目に書いた記事の殆どが、執筆前に8割型完成している。文章自体はパソコンに向かうまで一行も書かないのだけど、マインドマップを使って書きたい内容を整理した上で臨むから、いざキーボードを叩き始めると割とスラスラと文章が浮かんでくる。このやり方で書く場合は、パソコンに向かう前の時点で既に、あの動画は記事中のどこに挿入しよう、この画像はどこに貼ろう、と細部のデザインを考えていることが多い。


「日本の漫画・アニメはやはり最強だったの巻」のマインドマップ。振ってある番号は起承転結の順番。実際に文章を書き始める前の段階でここまで仕上がっていた。

物書きに限らず、絵画や音楽など、何かの分野で創作活動をする際の、アウトプットをする直前の人々の頭の中や情報整理の物理的な方法が可視化されたら面白いだろうな~と思う。どんな風に物を考えたり、どんな風に情報を整理したらこんな作品が生まれるんだろう、というのを知れたら楽しんじゃないかな。村上龍の取材ノートとか面白そうだし。俺の場合はこんな感じ、ということで、マインドマップを晒してみた。物書きにマインドマップを使うやり方って結構特殊な気がするんだけど(聞いたことがない)、どうなんでしょう。

2013/07/28

される差別とする差別

アジア人の多くは、映画やテレビに登場する欧米圏の人々を観察することで、彼らはアジア人に比べて、気さくで明るく、フレンドリーだという印象を抱くようになるだろう。日本人と比べてみても、欧米人は自らの感情に対して開放的で、人前で強い感情を表すことを恥と感じる我々とは対照的だ。本気で怒った時はかなり怖いが、その分、ポジティブな感情も同程度に表現するため、彼らがどのような感情を抱いているのか非常にわかりやすい。オーストラリア人も同様で、陽気でフレンドリーだ。移民国家という歴史もあって、市民は外国人と接することに慣れているように見える。早朝の通勤時やジョギング中など、道端ですれ違えば、「Hi!(やぁ!)」、「G'day, mate!(こんにちは!)」と挨拶を投げかけてくれる地元の人によく遭遇する。これが都会に限らず、田舎でも同じだから彼らの懐の深さに驚かされる。私のように日本以外の国に長期間滞在することが初めての者にとっては、オーストラリア人のこの人懐こさには驚かされるだろう。そして、「欧米人はアジア人に比べて開放的だ」という一般化されたイメージをより強めることになる。実際には、欧米圏のこうしたコミュニケーションは、見知らぬ人同士でも挨拶や世間話をすることで、お互いに敵意や悪意が無いということを確認する役割を持っている。たとえば、深夜に帰宅したマンションで見知らぬ人と二人きりでエレベーターに乗る場合などは誰しも不安を感じるだろう。赤の他人と言葉をかわす欧米式のコミュニケーションは、そのような場合における緊張をほぐす役割を担っており、実際、エレベーターやコインランドリーなど、狭い空間に人が集まる場所においてこのようなコミュニケーションはよく見られる。

される差別
見知らぬ人とこうした挨拶を交わすことに慣れていないうちは、突然の出来事にどう言葉を返して良いかわからず、驚きを感じながらも、この恥ずかしさを「楽しむ」ことができるだろう。しかし滞在期間が長くなるにつれ、オーストラリア人は必ずしもフレンドリーではなく、むしろ差別主義者の色が強いということに気づかされることになる。私の場合は、ジョギング中に、わざわざ車道を走る車の窓から中指を立てられたことがある。ある晩にクラブ街で日本人の友人と食事をしていた際には、気分の高揚した地元の若者集団に気さくにハイタッチを求められ、二言、三言言葉を交わした。それだけならば、「さすが、陽気で開放的なオージー(オーストラリア人)は酒を飲むとその性格が顕著になるな!」という美談で済むのだが、その直後、彼らに背中を向けその場を離れようとした際、「ヘイ!ファックユー!!」と何度も叫ばれた。要はからかわれていたのである。酒を飲むと人はつい本音が出てしまうものだが、この時の出来事は差別的なオーストラリア人の隠れた性格を見せられたようで大きなショックを受けた。他にも、フードコートで順番待ちをしている間に後ろの若者(女の子2人組であった)に背負っていたリュックにイタズラをされ、文句を言いに行くと「Asshole!(くそったれ!)」と罵られたこともある。この際も酷いショックを受けて、彼女らが視界に入るその場所で食事をする気になれなかった。

アジアの海を超えた時点で、アジア人にとって差別は宿命になるのかもしれない。衣食住全てにおいて充実している日本社会に住む多くの日本人にとって、わざわざ日本の海を渡り海外に移り住む必要性はほとんど無い。しかし、一度海を渡れば日本人も差別の対象になるのだという事実をいざ知った時、その衝撃は耐え難いものになり得る。日本の製品、料理、漫画・アニメは世界中で賞賛を浴びているが、それで日本人全体が尊敬の対象になったかというと、そうではなく、依然として差別の対象となっているのである。


こんなに沢山のジャップが泣いているのを見るのはヒロシマ以来だ
アメリカが日本を抑えて金を獲ったな・・・パールハーバー(真珠湾攻撃)の仕返しだ!




2011年の女子ワールドカップ決勝(日本対アメリカ)時には多くのアメリカ人が日本人に対する差別発言をネット上に呟いていた。

Racist Tweets After U.S. Soccer Victory Over Japan: “Japs” & “Pearl Harbor” Trending
http://www.japanprobe.com/2012/08/10/racist-tweets-after-u-s-soccer-victory-over-japan-japs-pearl-harbor-trending/


こうした差別に直面した場合、どう対処するべきなのだろうか。何事も穏便に済まそうとするのが日本人の「思いやり」だが、日本人は舐められているという事実に気づいた時、挑発的な差別にはしっかり反抗するべきではないかと葛藤するきっかけになる。しかし、挑発的な態度に挑発的な態度で以て臨むことは、結局、同じ穴の狢―自分を社会的常識に欠ける人々と同じ地位に落とすことと同義ではないか。では、黙ったまま心の中で相手を卑下し、ルサンチマンに浸り自分を慰めれば良いのか。葛藤は深まるばかりである。

インターネットが普及して10年、LCC(格安航空会社)が登場して数年。人種間の距離は益々縮まるばかりだが、差別に直面すると、これらが人種間の相互理解を促進し差別を減らすことに何ら寄与していないのかと悲しい気持ちにさせられる。私自身も、上に述べた個人的体験のせいで、一時期オーストラリア人不信に陥ったことがある。こうした体験が重なると、彼らの見せる笑顔は本物なのだろうかと疑心暗鬼に陥り、次第に自ら心を閉ざし、他者との接触を絶ってしまうようになる。


する差別
日本を離れてみない限り、こうした差別について理解することは難しいだろう。その意味で、実際にその身で差別を受け、この事実を知ることは非常に重要だ。なぜなら、人は多くの場合において、実際に自分が被害者になるまで痛みを理解することができないからだ。苦痛を受けて初めて、人は他者への振る舞いを振り返るのである。人種差別をされることで、人種差別が人に与える苦痛を知る。そして、私はオーストラリアで人種差別を受けたことではじめて、我々日本人も人種差別をしているという事実に気づかされたのである。その一番の標的は、中国人と韓国人だろう。

中国人や韓国人に対する差別的発言は、インターネット上でいくらでも散見できるが、私自身は、多くの日本人は分別をわきまえ、実社会では彼らに対して差別などしていないと思っていた。善悪問わず、誰もが個々の人種に対する印象をある程度持っているものだが、事実、我々日本人の持つ外国人へのネガティブなイメージは差別として実際に我々の態度に反映されているのである。そのことに我々日本人自身が気づくのは非常に難しい。なぜなら、偏見や異文化に対する無理解、あるいは政治絡みの軋轢が人々の頭にネガティブなイメージを作り上げ、それがやがて無意識な差別へと結びつくようになるからである。たとえば、中国人は列に並ばない、食事の仕方が汚いという話は誰しも聞いたことがあるだろう。このような話を何度も繰り返し聞かされることで、やがて「中国人はまともな教育を受けていない、教養がない」という風に、独善的価値観で他者を判断し、次第に見下した態度を取るようになってしまうのである。そして、そうした態度の多くは無意識のうちに表れるのである。

私自身がそうだったように、無意識の差別を意識する方法は、自分が差別される以外にないだろう。



オーストラリア人の差別に話を戻そう。オーストラリア人の外国人差別には歴史的背景が影響しているのかもしれない。今日のオーストラリアが移民国家として成立している背景には、イギリスの植民地時代に流刑地として利用されていたという歴史が関係しているが、その歴史においては白豪主義と呼ばれる人種差別的な移民政策が採られており、先住民族の排除政策の後、経済の転換期には諸外国からの労働者流入を阻止する動きが起こったからである。

そして、今後オーストラリアでの外国人差別はますます顕著になるのではないかと私は予想している。なぜなら、地元民の労働機会確保を目的とした差別が起こった当時と同じ雰囲気が今日のオーストラリアにも広がっているのではないかと感じているからである。世界経済の低迷期において、現在のオーストラリアは多くの外国人にとって格好の労働市場だ。オーストラリア政府は今年度上半期におけるワーキングホリデービザの発行数が前年同期比20%も上昇したことを発表しており、自国で職に就けない若者たちが移民を労働力確保の手段としているこの国に大挙して押し寄せている事実を如実に伝えている。それに加え、鉱業によって一時活性化されていた国内経済は好調期を過ぎ、失業率が上昇するなど陰りを見せ始めている。こうした状態が今後も続けば、移民や短期の外国人労働者による職業収奪に対して地元の人々はより危機感を募らせることになる。その帰結として、オーストラリア人による潜在的外国人差別は表面化し、やがて強まることになるだろう。

こうした一連の体験と思索の先に、私には日本が透けて見える。なぜなら、日本でも、今後労働力確保の手段として移民が増えることが予想されるからである。

過去2,3年、特に私が日本を経つ直前の頃、東京を中心とする首都圏のコンビニで急激に中国人店員の採用が増えたように感じた。会計の際に店員のネームプレートに目を向けると、そこにある名前は決まって中国系のものだった。日本人の店員を見つける方が困難と感じたことさえあり、その突然の変化に恐怖に似た驚きを感じたことをよく覚えている。現代オーストラリア人の外国人差別が移民による職業収奪への危機感に起因する部分があるとすれば、同じ事が今後の日本にも起こるだろうと予想することは決して的外れではないだろう。あるいは、謙虚さが美徳とされる日本では、より陰湿なものとなって表れるかもしれない。

少子化で国内労働力が縮小する一方の日本社会。近い将来、より多くの移民が連続的に流入するようになった時、我々日本人は彼らにどのような態度を見せるのだろうか。差別を受けたことのない人々が想像力を働かせ、個々人が社会との調和を保ちながら自己の向上に努めることが当たり前の世の中になっていくのか、それとも・・・。日本人の器が試される時が近いという気がしてならない。

日本での差別体験の有無について、中国青海省出身の友人が答えてくれた。

日本に住んで長い友人が差別を受けたことがないことを知り、嬉しくなった


今後、社会を生きる上で、「想像力」という言葉が重要な意味を持つキーワードになっていくと私は考えている。

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい。そうあるべきであり、そして、それを感じる瞬間は、他者に対して想像力を働かせた時か、あるいは、他者がそうしているのを目撃した時だけだからである。


2013/07/14

ちょっと困惑することがあった

つい先日、困惑することがあった。友人たちと話していた時のこと。今思い出してもどう理解して良いのかわからず、頭の中を整理できないため、この内容も支離滅裂になものになっているだろう。

ちょっとしたホームパーティーに参加し、みんなで夕食を食べたのだが、参加者の中に日本人は俺一人で、10人程度いるメンバーはみな同じ国の人たち。俺と話す時は英語で会話していた。

そのうちの一人が、「いつか日本(か沖縄)に行くからその時はガイドと宿泊場所と食事もろもろ全部提供してね!往復の航空券だけ自分で負担するから!」と言ってきた。まぁ冗談だろうと思いながら、相手の調子に合わせて「てことはつまり俺に会うのが楽しみだから会うわけじゃなく、あくまで俺を利用して俺の故郷をタダで満喫するために俺に会うわけだな!?」と皮肉っぽく返した。すると、相手は「I'm just kidding! lol You're too serious!(冗談だよ~真剣に捉え過ぎ!)」と返してきた。冗談ならもっと面白い言い方しろよ・・・と思いつつ、苦笑しながら一度は適当にやり過ごした。だが、その後も件の人物はことあるごとに同じことを何度も言ってくる。段々俺の方も、「こいつ多分マジだな・・・」と思い始める。相手が同じことを何度もいうもんだから、俺も上に書いたことを再三繰り返す。その度に相手は「You're too serious!」を返してきた。しまいにはその話を聞いていた他の人たちまで同じことを俺に言ってきた。たとえ冗談でも、何度も金を無心されるちょっと・・・と辟易すると同時に、向こうの言い分は周囲も冗談と認める一方で、俺の返事はなぜか冗談と捉えられなかったことに違和感を覚えた。俺としては、相手と同じ調子で返したつもりだったのだが・・・。その後もこのことが頭に残ったままで、その夜はずっとモヤモヤとした気持ちが消えなかった。いまだに、何故彼女のセリフだけが冗談とみなされ、俺の返事は冗談と認識されなかったのかわからない。

宴もたけなわを迎え、そろそろ帰るかという頃合いに泊まっていくように勧められた。正直、モヤモヤイライラしていたため、帰って一人の時間を過ごしたかった。帰りたかったし、こんな気分の俺が残って泊まってもみんなに迷惑をかけるだけだろうと思っていた。そうこう考えている間に、住んでいる一人が空き部屋を綺麗にしたからそこで寝るといいと言ってきた。陰鬱な気持ちを抱えたまま案内されるがままに覗いてみると、そこには友人の荷物が色々置いてあった。「荷物を置いているだけで別の部屋のベッドで寝てるから気にしないで」と言われるが、その荷物の持ち主はその夜初めて会った人で、しかも女性だ。気の置けない男友達の荷物がある部屋ならまだしも、全くと言っていいほど知らない人間。そんな部屋に寝るのは図々しいし失礼だと思った。だから、「親切にありがとう。けどいいよ。荷物を置いている彼女に悪い。今日は帰るよ。」と断ったのだが、向こうもいいから泊まっていけと食い下がる。それでも再度断った。「そっちが気にしなくても俺が気にするから。マジでありがとう。」と言うと、また「You're too serious(お前は真面目すぎる).」と言われてしまった。その言葉にウンザリしてしまった。

結局、運転担当だった別の友人が俺が泊まると勘違いしてしまったため置き去りにされ、その晩はその好意に甘えることを余儀なくされた。。

以前の記事でピア・プレッシャー(同調圧力)について少し書いたが、彼らの申し出を断る俺に対する彼らの態度になんとなくそれを感じた。 もちろんこの晩の友人たちはみんな親切で俺も好きだが、この一連のやり取りの時だけは、俺の意見が尊重されていないような気がした。「親しき仲にも礼儀あり」という価値観が彼らの文化には存在しないのだろうか?とさえ思ってしまった。そんなことはないはずなのだが。

自分でも、自分が人より少し真面目すぎるところがあることはわかっている。その原因は両親が離婚し片親・一人っ子で育った環境にあると思っている。今考えれば一人で過ごす時間が他の子供より圧倒的に多かっただろうし、一人っ子だったから、身近に相談できる人もいなかった。だから、自然と全て一人で考え、一人で行動するように育ったのだと思う。良く言えば、少しばかり自立した人間に育ったと思う。一方で、人に助けを求めたり好意に甘えたりすることが苦手な性格にもなってしまった。それでも、今まで日本で生きてきた中で「お前は真面目すぎる」なんてことをいきなり会話の中で言われたことは一度も無かった。覚えている限りは。その言葉を何度も何度もぶつけられたものだから、俺のこの性格がおかしいのだろうかとさえ思ってしまった。もしかしたら、日本でそう言われたことがなかったのは、幸運にも俺の友人たちが俺のことをよく知っていて、俺が皮肉屋で感情をあまり顔に出さない人間だということをよく理解してくれていたからかもしれない。もしそうならば、残念なことに、この晩の友人たちとの友人関係はまだまだ浅く表面的で、お互いを十分理解できていないものだということになる。まぁ、会ってたかだか数ヶ月程度で人を知った気になるのもおこがましいことだけど。

多分、「You're too serious!(お前は真面目すぎる)」と言われるたびにため息が出るような気分になったのは、そんな自分の自立した意見や性格が尊重されず、好意に甘えることを強制されているように感じたからだろう。あるいは、一対多数で日本人的思考が理解されなかったことに苛立ってしまったのかもしれない。もしかしたら、彼らの文化では人間関係は距離感の近いほど良しとされていて、友人の好意に甘えないことは逆に失礼で友情に背く行為だとみなされているのかもしれない。そう考えるなら、あのタイミングで申し出を断った俺が変に見られるのも当然だろう。しかし残念ながら、俺はどちらかと言うと、付かず離れずの距離感が最適な人間関係もあると思っているし、育った環境のせいもあって、多くの人と四六時中やんのやんのするよりは、70%の時間を一人で過ごしたいと思っている。自分がどうするか、どうすべきか、どうしたいかぐらいは自分で考えて決めたい。他人の意見も尊重するから、他人には俺の意見も尊重してほしいと思っている。それが無視されたような気がして、その夜は一気に気持ちが冷めてしまった。

もしかしたら、俺が認識している彼らとの距離感と、彼らが認識している俺との距離感には大きな違いがあるのかもしれない。この二つのできごとはそれを示唆しているような気がした。

少しばかり時間が経って、思いつく範囲で原因を考えながら気持ちを整理してみた。上に書いたことが正しいことなのかか全くわからないが、少しは気持ちが落ち着いた。この文章を読む多くの人も、俺は真面目な人間だと思うのかもしれない。そう言えば、会社を辞める時も、理由を伝えた上司に真面目だと言われたっけ。

良くも悪くも、異文化コミュニケーションというのは難しい。自分の認識の甘さを痛感させられた気がする。

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