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2013/07/28

される差別とする差別

アジア人の多くは、映画やテレビに登場する欧米圏の人々を観察することで、彼らはアジア人に比べて、気さくで明るく、フレンドリーだという印象を抱くようになるだろう。日本人と比べてみても、欧米人は自らの感情に対して開放的で、人前で強い感情を表すことを恥と感じる我々とは対照的だ。本気で怒った時はかなり怖いが、その分、ポジティブな感情も同程度に表現するため、彼らがどのような感情を抱いているのか非常にわかりやすい。オーストラリア人も同様で、陽気でフレンドリーだ。移民国家という歴史もあって、市民は外国人と接することに慣れているように見える。早朝の通勤時やジョギング中など、道端ですれ違えば、「Hi!(やぁ!)」、「G'day, mate!(こんにちは!)」と挨拶を投げかけてくれる地元の人によく遭遇する。これが都会に限らず、田舎でも同じだから彼らの懐の深さに驚かされる。私のように日本以外の国に長期間滞在することが初めての者にとっては、オーストラリア人のこの人懐こさには驚かされるだろう。そして、「欧米人はアジア人に比べて開放的だ」という一般化されたイメージをより強めることになる。実際には、欧米圏のこうしたコミュニケーションは、見知らぬ人同士でも挨拶や世間話をすることで、お互いに敵意や悪意が無いということを確認する役割を持っている。たとえば、深夜に帰宅したマンションで見知らぬ人と二人きりでエレベーターに乗る場合などは誰しも不安を感じるだろう。赤の他人と言葉をかわす欧米式のコミュニケーションは、そのような場合における緊張をほぐす役割を担っており、実際、エレベーターやコインランドリーなど、狭い空間に人が集まる場所においてこのようなコミュニケーションはよく見られる。

される差別
見知らぬ人とこうした挨拶を交わすことに慣れていないうちは、突然の出来事にどう言葉を返して良いかわからず、驚きを感じながらも、この恥ずかしさを「楽しむ」ことができるだろう。しかし滞在期間が長くなるにつれ、オーストラリア人は必ずしもフレンドリーではなく、むしろ差別主義者の色が強いということに気づかされることになる。私の場合は、ジョギング中に、わざわざ車道を走る車の窓から中指を立てられたことがある。ある晩にクラブ街で日本人の友人と食事をしていた際には、気分の高揚した地元の若者集団に気さくにハイタッチを求められ、二言、三言言葉を交わした。それだけならば、「さすが、陽気で開放的なオージー(オーストラリア人)は酒を飲むとその性格が顕著になるな!」という美談で済むのだが、その直後、彼らに背中を向けその場を離れようとした際、「ヘイ!ファックユー!!」と何度も叫ばれた。要はからかわれていたのである。酒を飲むと人はつい本音が出てしまうものだが、この時の出来事は差別的なオーストラリア人の隠れた性格を見せられたようで大きなショックを受けた。他にも、フードコートで順番待ちをしている間に後ろの若者(女の子2人組であった)に背負っていたリュックにイタズラをされ、文句を言いに行くと「Asshole!(くそったれ!)」と罵られたこともある。この際も酷いショックを受けて、彼女らが視界に入るその場所で食事をする気になれなかった。

アジアの海を超えた時点で、アジア人にとって差別は宿命になるのかもしれない。衣食住全てにおいて充実している日本社会に住む多くの日本人にとって、わざわざ日本の海を渡り海外に移り住む必要性はほとんど無い。しかし、一度海を渡れば日本人も差別の対象になるのだという事実をいざ知った時、その衝撃は耐え難いものになり得る。日本の製品、料理、漫画・アニメは世界中で賞賛を浴びているが、それで日本人全体が尊敬の対象になったかというと、そうではなく、依然として差別の対象となっているのである。


こんなに沢山のジャップが泣いているのを見るのはヒロシマ以来だ
アメリカが日本を抑えて金を獲ったな・・・パールハーバー(真珠湾攻撃)の仕返しだ!




2011年の女子ワールドカップ決勝(日本対アメリカ)時には多くのアメリカ人が日本人に対する差別発言をネット上に呟いていた。

Racist Tweets After U.S. Soccer Victory Over Japan: “Japs” & “Pearl Harbor” Trending
http://www.japanprobe.com/2012/08/10/racist-tweets-after-u-s-soccer-victory-over-japan-japs-pearl-harbor-trending/


こうした差別に直面した場合、どう対処するべきなのだろうか。何事も穏便に済まそうとするのが日本人の「思いやり」だが、日本人は舐められているという事実に気づいた時、挑発的な差別にはしっかり反抗するべきではないかと葛藤するきっかけになる。しかし、挑発的な態度に挑発的な態度で以て臨むことは、結局、同じ穴の狢―自分を社会的常識に欠ける人々と同じ地位に落とすことと同義ではないか。では、黙ったまま心の中で相手を卑下し、ルサンチマンに浸り自分を慰めれば良いのか。葛藤は深まるばかりである。

インターネットが普及して10年、LCC(格安航空会社)が登場して数年。人種間の距離は益々縮まるばかりだが、差別に直面すると、これらが人種間の相互理解を促進し差別を減らすことに何ら寄与していないのかと悲しい気持ちにさせられる。私自身も、上に述べた個人的体験のせいで、一時期オーストラリア人不信に陥ったことがある。こうした体験が重なると、彼らの見せる笑顔は本物なのだろうかと疑心暗鬼に陥り、次第に自ら心を閉ざし、他者との接触を絶ってしまうようになる。


する差別
日本を離れてみない限り、こうした差別について理解することは難しいだろう。その意味で、実際にその身で差別を受け、この事実を知ることは非常に重要だ。なぜなら、人は多くの場合において、実際に自分が被害者になるまで痛みを理解することができないからだ。苦痛を受けて初めて、人は他者への振る舞いを振り返るのである。人種差別をされることで、人種差別が人に与える苦痛を知る。そして、私はオーストラリアで人種差別を受けたことではじめて、我々日本人も人種差別をしているという事実に気づかされたのである。その一番の標的は、中国人と韓国人だろう。

中国人や韓国人に対する差別的発言は、インターネット上でいくらでも散見できるが、私自身は、多くの日本人は分別をわきまえ、実社会では彼らに対して差別などしていないと思っていた。善悪問わず、誰もが個々の人種に対する印象をある程度持っているものだが、事実、我々日本人の持つ外国人へのネガティブなイメージは差別として実際に我々の態度に反映されているのである。そのことに我々日本人自身が気づくのは非常に難しい。なぜなら、偏見や異文化に対する無理解、あるいは政治絡みの軋轢が人々の頭にネガティブなイメージを作り上げ、それがやがて無意識な差別へと結びつくようになるからである。たとえば、中国人は列に並ばない、食事の仕方が汚いという話は誰しも聞いたことがあるだろう。このような話を何度も繰り返し聞かされることで、やがて「中国人はまともな教育を受けていない、教養がない」という風に、独善的価値観で他者を判断し、次第に見下した態度を取るようになってしまうのである。そして、そうした態度の多くは無意識のうちに表れるのである。

私自身がそうだったように、無意識の差別を意識する方法は、自分が差別される以外にないだろう。



オーストラリア人の差別に話を戻そう。オーストラリア人の外国人差別には歴史的背景が影響しているのかもしれない。今日のオーストラリアが移民国家として成立している背景には、イギリスの植民地時代に流刑地として利用されていたという歴史が関係しているが、その歴史においては白豪主義と呼ばれる人種差別的な移民政策が採られており、先住民族の排除政策の後、経済の転換期には諸外国からの労働者流入を阻止する動きが起こったからである。

そして、今後オーストラリアでの外国人差別はますます顕著になるのではないかと私は予想している。なぜなら、地元民の労働機会確保を目的とした差別が起こった当時と同じ雰囲気が今日のオーストラリアにも広がっているのではないかと感じているからである。世界経済の低迷期において、現在のオーストラリアは多くの外国人にとって格好の労働市場だ。オーストラリア政府は今年度上半期におけるワーキングホリデービザの発行数が前年同期比20%も上昇したことを発表しており、自国で職に就けない若者たちが移民を労働力確保の手段としているこの国に大挙して押し寄せている事実を如実に伝えている。それに加え、鉱業によって一時活性化されていた国内経済は好調期を過ぎ、失業率が上昇するなど陰りを見せ始めている。こうした状態が今後も続けば、移民や短期の外国人労働者による職業収奪に対して地元の人々はより危機感を募らせることになる。その帰結として、オーストラリア人による潜在的外国人差別は表面化し、やがて強まることになるだろう。

こうした一連の体験と思索の先に、私には日本が透けて見える。なぜなら、日本でも、今後労働力確保の手段として移民が増えることが予想されるからである。

過去2,3年、特に私が日本を経つ直前の頃、東京を中心とする首都圏のコンビニで急激に中国人店員の採用が増えたように感じた。会計の際に店員のネームプレートに目を向けると、そこにある名前は決まって中国系のものだった。日本人の店員を見つける方が困難と感じたことさえあり、その突然の変化に恐怖に似た驚きを感じたことをよく覚えている。現代オーストラリア人の外国人差別が移民による職業収奪への危機感に起因する部分があるとすれば、同じ事が今後の日本にも起こるだろうと予想することは決して的外れではないだろう。あるいは、謙虚さが美徳とされる日本では、より陰湿なものとなって表れるかもしれない。

少子化で国内労働力が縮小する一方の日本社会。近い将来、より多くの移民が連続的に流入するようになった時、我々日本人は彼らにどのような態度を見せるのだろうか。差別を受けたことのない人々が想像力を働かせ、個々人が社会との調和を保ちながら自己の向上に努めることが当たり前の世の中になっていくのか、それとも・・・。日本人の器が試される時が近いという気がしてならない。

日本での差別体験の有無について、中国青海省出身の友人が答えてくれた。

日本に住んで長い友人が差別を受けたことがないことを知り、嬉しくなった


今後、社会を生きる上で、「想像力」という言葉が重要な意味を持つキーワードになっていくと私は考えている。

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい。そうあるべきであり、そして、それを感じる瞬間は、他者に対して想像力を働かせた時か、あるいは、他者がそうしているのを目撃した時だけだからである。


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