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2013/02/24

パースの写真いろいろ

先月23日にブリスベンからパースに移動した。飛行機で5時間もかけてオーストラリアの西端に移動したわけだけど、予想していた以上に都会で驚いた。あと、ブリスベンにいた時は色んな人からパースは物価が高いと言われたのだけど、想像してたよりは高くなかったな~。ほとんど外食してないからそう感じるのかもしれないけど。

州が変わると色々変化があるのね、ということで個人的に面白いと思ったパースの写真を貼っていきます。

パースに降り立っていきなり驚かされたのがこのバス。こんな風に運転席が完全に保護されたバスはブリスベンでは一度も見たことがなかった。けど全部のバスがこんな風に完全防御されているわけではなく、市街地で走っているバスにもフェンス付きのものとそうでないものがあった。テロ対策にしてはテキトーな気が。よくわからんw

夢がひろがりんぐなマネーストリート。金持ちになりてー。

タカヒロが「ハリーポッターみたいな道」と小学生並みの感想を漏らしたオシャレな通路。両サイドには葉巻屋さんやチョコレート屋さんなど一流感溢れるお店がずらっと軒を連ねていた。パース市街はまぁブリスベンと変わらない町並みなのだけど、アーケードに面したこの通路だけはイギリスちっくで、「トンネルを抜けるとそこは・・・」の次に雪国ではなく、千と千尋の神隠しを頭に浮かべた俺も小学生並みの感覚しか持ちあわせていなかったのであった。


ブリスベンはカフェやファーストフードがいたるところにあり、その多くが無線環境を整えているため街に出ればネットの閲覧には困らなかったのだが、パースはそういった場所が限られていて苦労した。幸いにも図書館がWiFiを提供していたため利用しようとしたのだが、そのスピードの遅さに唖然。これって無いほうがマシなんじゃないか・・・?1ページ読み込むのに1日かかるレベルw 街中のカフェなどの無線はここまで遅いことはないのだろうけど、ブリスベンよりはタダで使える無線環境(野良WiFi)が少ない印象。探すのに苦労した。


ちなみにその図書館のロッカー利用に関する看板↓
荷物が安全な場所に保管されているという安心感―プライスレス。言うことはキザ。

ブリスベンの注意書き
パースの注意書き
ブリスベンの表示と微妙に違うパースの歩行者用信号機の注意書き。緑の男がパースでは右向きになっているwあと気のせいか細身になってる・・・。ちなみにどこに行っても赤点滅時は超サイヤ人化するようだ。

やっつけ仕事感満載のエレベーター。表示が壁に埋まってます。これがオージークオリティーなのか。

あと変なダンサーもいました。
このヤル気の中途半端さにはアボリジニも反応せざるを得ない。

2月10日は旧正月ということでパースでもお祭りが開かれていた。美味しそうな屋台やゲームが沢山あるのだが・・・これは誰がやるんだ?wしかも一秒ごとに全てのピエロが同時に左右に首振りします。子どものトラウマになること必至。

それから、オーストラリアに来てからというもの観光らしい観光は全くしてこなかったのだけど、この前はパースから電車で40分ほどのフリーマントルという港町に行ってきた。お洒落で落ち着いた町だったし、また行きたいわん。以下フリーマントルの写真。

インド洋だよインド洋!ちょっと感動wしかし海は俺的には普通だった。


お洒落。メルボルンもこんな感じなのかな~と想像。

mixiの昔のログインページみたいな高台に来たので必死にこのアングルで撮影。

この日の同行者たち。たかひろの語学学校のクラスメイト。俺様完全にアウェーだったのでバンキシャも真っ青のローアングルからいやらしく撮影。


少しずつ日焼けしてきた。




とりあえずパースで面白いと思ったのはこれぐらいかな。




ていうか俺写真撮るのうまくないか!?w

2013/02/16

9時間後・・・

青空の下、この場所で日焼け止め無しで9時間働いたら・・・




首の後ろがこんなに焼けてしまった!オーストラリアの紫外線量は日本の7倍近くあるらしいのだが、襟ぐりの広い長袖しか持っていないためここだけ日焼けがひどいことに。

今度からは日焼け止め塗ろうかな~。さすがにこっちで一回も日焼け止めを使わないのはマズイか・・・。

2013/01/05

邂逅その3:国吉高宏


いつもと変わらない日常感満載だったここオーストラリアで年越しを迎えたわけだけど(明けましておめでとうございます)、年明け早々にミラクルとも思える再会をゴールドコーストで果たしてきた。彼の名は国吉高宏(くによしたかひろ)。金持ち一家のドラ息子として地元の仲間の間では有名な男で、小学校時代に頻繁に遊んでいたのだが、俺を含む地元仲間の多くが校区内の中学校に進学する中、彼は県内屈指の進学校として名高い沖縄尚学(中高一貫校)に進学しお互い別の道を歩んだことで、お互いに長いこと連絡を取っていなかったのであった。沖縄尚学は甲子園優勝を果たしたことのある高校だからご存知のないちゃーも多いはずだ。

牧歌的、アホアホで脳内お花畑な馬鹿笑いに満ちた小学校6年間を共に過ごしてきただけに(少なくとも俺の6年間はそうだったぞ)、一緒にガハハ笑いを共有してきたアイツが沖尚(おきしょう)に進学したという当時のニュースはまさに青天の霹靂といった感じで、「え、一緒にバカやってきたのにお前は沖尚・・・?俺取り残され、え・・・?」と軽いショックを覚えた同級生は俺だけじゃなかったはずだ。実際、沖尚に進学したのは学年でも2,3人で、その中の一人が彼だったとは他の友人たちも想像できなかったはずだ。俺も卒業後に知ったしね。

そういう事情があり、そして彼のズボラな性格もあり、小学校卒業後彼は同級生の誰一人とも連絡を取ることがなく、会うことも一切なかったそうだ。狭い沖縄で誰とも会わずに過ごすことなんてできるんですねえ・・・。彼は引越しもしてなかったのに。

そして時は流れ、俺は彼のその後を知ることのないまま、高校卒業後内地(千葉)へと旅立ち、大学生になり、社会人になり、会社をやめることになる。その間の何度かの帰郷でも地元の友人から彼の噂を聞くことは一ミリたりとも無かったのであった。その間12年である。

そんな現実世界の広さを一気に狭めたのが、誉れ高ければ悪名も名高いアノ超巨大SNS、そう、
F a c e b o o kである。
ワーホリでオーストラリアに渡航する直前、いや渡航した後だっただろうか、彼の名前が「知り合いかも?」の欄に出てくるではないか!リアルでの人間関係の延長でしかないFacebook上で現実の上っ面な関係の人まで友達にしてしまうと、その距離感のせいでお互いに変な気を遣い合ってめんどくさいことこの上ない。そのことを知っていたため、リアルで大した関係の無い人ばかり提案してくるこの機能は殆どいつもチラ見でスルーがJK(常識で考えて)だったのだが、この時ばかりは「この機能もたまにはやるではないか!」と賞賛しきりであった。そう言えば高校時代の恩師にもこの機能のおかげでFacebook上で再会できたような気が。早速メッセージを送り、まずはネットでの再会を果たした。
ここにヤツの名前が現れたのである

そしてここがまさにミラクルなのだが、なんと俺に遅れて2ヶ月後に同じワーホリで同じオーストラリアに行く予定だと彼が言うではないか!しかも俺が滞在するブリスベンから電車で気軽に行けるゴールドコーストに。なんという時の巡り合わせだろうか。まさに「僥倖っ・・・!僥倖っ・・・!!」状態である。いくつかのやりとりを経てオーストラリアでの再会の約束を交わし、俺は彼の渡豪を待っていた。
それにしても、オーストラリアに来てからというもの、奇縁とも思える出会いが多いように感じる。今のバイト先にも、うちなーんちゅの、しかも母校の那覇商業高校で一学年上だった先輩が働いているし、先日旅行で訪ねてきた家族連れのお客さんなんかは、よくよく尋ねてみると千葉の自宅のすぐ近くに住んでらっしゃる農家の方であった。本当に、人生どこで誰と出会うのかわからないものである。まさに邂逅である。

そんな運命的とも思える感覚を抱きながら、ついに12年の時を経て彼との再会を果たした。異国の地、オーストラリアで。昔からいつか会いたいとぼんやり思い続けてはいたが、まさかそれが異国の地で実現にすることになるとは夢にも思っていなかった。3ヶ月間のワーホリ生活で語学学校に通いながらサーフィンを覚えた彼は日に焼け、俺以上にこちらでの生活を漫喫しているようであった。12年の時を経ても彼の良い意味でバカっぽい、陽気な雰囲気が変わっていないことに再会と郷愁の喜びを感じ、また長い内地生活でいささかすれて皮肉屋な人間になったであろうこの俺にあの頃と同じように接してくれたことに安堵した。


再会の瞬間。待ち合わせ場所に高宏が現れ、100mの距離をお互いに歩み寄っていく。まだ顔は見えない。カメラを向けるとポーズを取る高宏。相変わらずのアホアホっぷりが確認できた瞬間。

地元仲間の誰もが知らなかった彼の12年間の過去を聞いてみると、中学・高校時代にはサッカーとバンドに明け暮れたり、反抗期で何度も家出を重ね元ボクサーの父親にボコられたり(沖尚の生徒なのにw)、高校卒業後は琉球大学(県内唯一の国立大である)に進学したり、そんな父親の足跡をたどるようにプロボクサーになったりと、リア充なのか何なのかわからない濃い人生を送っていたようだw反抗期の話なんかはちょっとうらやましかったなぁ。話を聞くに、彼の母親は大変な思いをしただろうけど、俺はチキンでそんなことできなかったし。反抗期らしい反抗期が無かったから今の俺は性格がひねくれてるんだろうな・・・と考えさせられたり。とにかく彼は昔のイメージと変わらない12年間を送っていたようだ(笑)しかしそんな性格が災いしたのか、再会の前日(大晦日である)に彼はサーフィンで5針を縫う怪我を脚に負っていた。バカやな・・・w

 
そして、元々その予定は無かったのだけど、折角ゴールドコーストに来たのだから、ということで海で泳ぐことに。脚の包帯をさすりながら涙目で海を眺める彼を尻目に一人ゴールドコーストの海を初めて漫喫したのだけど、とても楽しかった。こっちに来てからは勉強に集中しようと外で遊ぶことは控えるようにしていたのだけど、たまにはいいものだなと感じた。特に12月は色々あって気分の滅入る日が多かっただけに、最高の気分転換になった。家に閉じこもって自分の世界に浸りすぎていたのかもしれない。浜辺に寝転んで身体を日に焼きつつ空を見上げながら自分自身を客観的に見つめてみると、旧友との再会を果たし、世界有数のビーチに寝転んでいる今の自分はこれまでにない自由を謳歌しているのだという事実に気付かされた。二年後の自分がこの地でこんなことをしているなんてことは四ッ谷で働いていた当時の自分には全く想像できなかっただろう。その時には得られなかった最高の自由を今手にしていて、だからこそ意義あるものにしなければならないというとても重要なことを再認識させられた。
1年目のワーホリ期間ももう折り返し地点。年明けと同時にこのことに気づけて良かった。たまには気分をリフレッシュさせるのも悪くないな。

12年越しの再会はとても楽しかった。彼とは今後行動を共にしようかと話をしている。再度気合を入れなおし、ワーホリ1年目の後半戦に臨みたい。

2012/12/31

NAATIについて調べてみた~認定制度編その3~

過去二回の記事のまとめ。
NAATIについて調べてみた~認定制度編その1~
NAATIについて調べてみた~認定制度編その2~

翻訳者あるいは通訳者としてNAATIの認定資格を取得する手段は五つ存在するが、それぞれ取得できる資格が異なっており、自分の好きな手段で好きな認定資格が得られるわけではないことに注意する必要がある。また、かなりハードルの高い申請条件が設置されているものもある。
これらを踏まえた上で整理すると、

NAATI指定校の翻訳(通訳)課程を終了する>認定試験を受ける>その他の方法で申請する

この順番でNAATI認定資格取得を目指すのが最も簡単(合理的)であるということになるだろう。全体的な統計がホームページ上に掲載されていないためハッキリしないが、2010年~2011年の年次報告書のデータを見る限りでは、この期間に認定を受けた翻訳者(通訳者)の67%が指定校経由での認定取得となっており、次いで認定試験受験による認定取得が30%となっている。残りがその2の記事で挙げた3,4,5番目の方法による認定取得になるが、それらが全体に占める割合はたったの3%となっている。このことからも、上述した順番での認定取得が一般的であることが窺える。

ちなみに、認定試験の試験要項末尾には言語別に試験に関する特記事項があり、日本語の試験については以下のように定められている。
  • 漢字は常用漢字1945字のみ使用可能、旧字体の使用不可
  • かな表記は現代仮名遣いに準拠
  • 筆記は楷書によること、草書体は不可
  • カタカナの表記は研究社「新和英大辞典 第4版」で定められた再修正ヘボン式に準拠
  • 言語は標準語を用い、方言やスラングを使用しないこと(翻訳試験・通訳試験)
また、規定に沿わない「異なった文字や仮名遣い」は採点の対象から除外されるとまで記されている。なかなか細かく定められていて驚いた。

少し脱線するが、個人的に気になったのが「方言やスラングを使用しないこと」の部分。これは以前から考えていたことなのだが、私の場合、将来通訳をするにあたって訳出の面で沖縄で育ったことがいつか障壁になるのではないかと小さな不安を抱いている。というのも、沖縄の言葉遣いには方言とは別に沖縄独特の日本語表現というものがあり、字面は日本語なのだが、そのような言い方は内地(本土)ではまったく使われない、というものがかなりある。しかも、沖縄人のほとんどはそうした表現は内地でも通じる一般的な表現だと思っている。たとえば、
  • クーラーが「逃げる」(冷気が窓などから出ていくこと)・・・「クーラーが逃げるから窓閉めて~」など
  • 洋服を「つける」(衣類は全て「着(つ)ける」で表現する)
  • 水を「こぼす」(意図的に捨てること。日本語の「こぼす」は不注意によるものらしい)
  • 「~しましょうね、~しようね」(日本語ではLet's、お誘いの意味だが沖縄ではただの報告)・・・「じゃあ帰りましょうね~」(=いっしょに帰ろうという意味ではなく、さようならの意味)」
私自身、このような表現が沖縄独特のものであるということは、FM沖縄の「辞典には載っていないウチナー口講座」で大学生時代に初めて知った。

こうしたことを考えると、試験官はこういった些細な言葉遣いを厳密に発見し採点に反映させることができるのだろうかと疑問が浮かんでくる。その1で紹介した丸岡さんの記事でも指摘されているが、採点者は同レベルの通訳者・翻訳者が務めることになっている。受験者の解答が常用漢字1945字のみを使用し、研究社の再修正ヘボン式に則ったものになっており、そして方言やスラングを使用していないか、文章や録音データを一つ一つ確認するのはそう簡単ではなく、採点にかなりの時間を要するように思うのだが・・・。

以上、かなり大雑把ではあるが勉強も兼ねて認定制度について目立った箇所をまとめてみた。誰かの役に立てば良いのだが・・・。

NAATIについては今後も継続的に記事にしていく予定(予定…)なので、こういう点を調べて欲しい、という要望などがあればお知らせください。ご期待に応えられるかは不明ですが(^_^;)

NAATIについて調べてみた~認定制度編その2~

前回の記事では、認定試験によるNAATIの認定資格取得について確認した。今回は、それ以外の

2.オーストラリア国内のNAATI指定教育機関で翻訳(通訳)課程を修了する
3.オーストラリア国外の教育機関で取得した翻訳(通訳)の資格で申請する
4.国際的なプロ翻訳者・プロ通訳者協会への加盟証明を行う方法
5.突出した実績を証明する方法

についてみていく。

前回の記事では、翻訳・通訳両方の認定資格において、試験制度では取得できないものがあることがわかった。そこで、上に列記した2~5番目のいずれかで認定申請を行う場合について、それぞれの資料を読んでみると、これらの申請方法であればConference Interpreter(シニア含む)とAdvanced Translator(シニア含む)の認定が受けられる旨記されている。やはりこれらの資格は認定試験の受験では取得できない仕組みになっており、認定資格自体が廃止されたり統合されたりしたわけではないようである。
では、1つずつ見ていく。

2.オーストラリア国内のNAATI指定教育機関で翻訳課程あるいは通訳課程を修了する
日本語の翻訳・通訳(もしくは両方)認定が受けられる学校はオーストラリア国内に現在16校あり、来年2月からはメルボルンのモナシュ大学でもNAATIの指定を受けた翻訳・通訳課程が始まる。これらの教育機関で翻訳(通訳)課程を修了した学生は認定試験を受験する必要のなく各教育機関毎に定められたレベルの翻訳者(通訳者)認定を受けることができる。
NAATI指定一覧はこちら(2012年11月現在)。

3.オーストラリア国外の教育機関で取得した翻訳(通訳)資格で申請する場合
この方法で取得できる認定資格は以下。
  • Advanced Translator
  • Professional Translator
  • Conference Interpreter
ただしこの方法による申請の場合、オーストラリア国内で翻訳(通訳)課程を修了した場合(方法2)と異なり、当該教育機関での資格取得(課程修了)イコールNAATI認定取得にはならないと記載されており、同じ教育機関から複数の生徒が申請を行うようなケースでは、各人の実務経験なども別途加味した上で査定を行うため、申請が通るかどうかの結果は一人一人異なると明記されている。

4.国際的なプロ翻訳者・プロ通訳者協会への加盟証明を行う方法
この方法で取得できる認定資格は以下。
  • Advanced Translator(シニア)
  • ---国際会議翻訳者協会(Association Internationale de Traducteurs de Conference)をはじめとする協会の加盟会員に付与される認定資格。
  • Professional Translator
  • ---翻訳の学位を取得している英国公認言語学会(Chartered Institute of Linguists)会員に付与される認定資格。
  • Conference Interpreter(シニア)
  • ---国際会議通訳者協会(Association Internationale des Interprètes de Conférence)会員に付与される認定資格。
他の方法と同様、この方法による認定申請も関係書類(会員証明など)の提出によって査定される。

5.実績証明
この方法で取得できる認定資格は以下。
  • Advanced Translator(シニア)
  • Conference Interpreter(シニア)
「突出した実績を証明する」だが、資料によると、
Advanced Translator(シニア)
  • 申請の時点で最低でも過去5年以上に渡り国連関係機関、欧州連合(EU)、インターポール、国際司法裁判所、NATOで常勤翻訳者として働いた実績のあること、あるいはフリーランスとして以下全てを満たすこと
    1. ヨーロッパ言語またはアジア言語への100万語以上の翻訳実績、または1ページ25行ダブルスペースの様式で4000ページ以上の翻訳実績があること。またそれらの実績が申請者自身の活動のみによって達成されたものであることをバンクーバープロトコルに基づき法的に宣言すること
    2. 査定用にAdvanced Translator以上の基準で訳出した翻訳文書を3つ提出し、それらの実績が申請者自身の活動のみによって達成されたものであることをバンクーバープロトコルに基づき法的に宣言すること
Conference Interpreter(シニア)
  • 申請の時点で最低でも過去5年以上に渡り国連関係機関、欧州連合(EU)、インターポール、国際司法裁判所、NATOで常勤通訳者として働いていること、あるいは
  • フリーランス会議通訳者として国際会議、セミナー、政府による多国間協議に150日以上従事していること

これらが認定に必要な実績の目安として定められている(他にもそれら実績の証明方法に関わる規定がある)。かなり厳しい条件のように感じる。

ある同時通訳者は、ミス・ユニバースで通訳を務めてきた経験も、同時通訳者としての15年のキャリアもNAATIの認定取得には全く役に立たず、泣く泣くProfessional Interpreterの試験を受験するしかなかったと嘆いている。しかもこの同時通訳者は不幸なアクシデントのおかげで再受験するハメになったようだ。

ここまで具体的に明記されていると、たとえどれだけ知名度の高い国際的なイベントや会議でも、ここに明記されている機関以外での活動は「突出した実績」とはみなされないということかもしれない。

このように、申請する方法によって取得できる認定資格がかなり細かく区別されている。

NAATIについて調べてみた~認定制度編その1~

今月はじめに師匠に招待され、シドニーで開催された通訳者・翻訳者向けのAUSITカンファレンスに参加した。その際に、「自分のためにもなるからNAATIについて調べてみたら?というか調べろ。」と命を受けたのでまずはNAATIの認定制度を中心に調べてみた。

オーストラリア政府公認の下、翻訳者・通訳者の認定を行ない、政府公認のプロとしてお墨付きを与えているのがNAATIという団体。団体の目的と制度については「翻訳・通訳業界に資格試験制度は必要なのか?」という記事で翻訳者の丸岡さんがかなりわかりやすい説明をされている。

彼の記事によると、NAATIは1977年に当時の移民省という部門に設置されたそうだ。私自身でも認定制度と併せて組織の沿革なども調べようと思ったのだが、NAATIの公式サイトには「コモンウェルス(連邦政府)、州政府、領政府の共同で運営されており、2001年会社法(Corporations act 2001)でその設置が定められている」と軽く触れられているだけで、組織の沿革に関する具体的な情報や資料はあまり掲載されていない。 この記事では自身で確認できた範囲でまとめていく。

NAATIの目的
NAATIは組織の目的について、「コミュニケーションの多様性に伴う需要の変化に応えることによるオーストラリア社会の統合と参画強化」を掲げており、以下をその主たる方策としている。
  1. 通訳と翻訳における高い国家基準の設定、運用、普及
  2. 基準を満たす翻訳者・通訳者の認定による品質保証制度の導入
オーストラリア国内での通訳・翻訳産業の品質維持のためにこの認定制度があるわけだが、翻訳者(通訳者)として認定を得る方法には以下の五つがある。
  1. NAATI認定試験の受験
  2. オーストラリア国内のNAATI指定教育機関で翻訳(通訳)課程を修了する
  3. オーストラリア国外の教育機関で取得した翻訳(通訳)に関する資格の取得証明
  4. 国際的に認知されたプロ翻訳者・プロ通訳者協会への加盟証明
  5. 翻訳(通訳)における突出した実績の証明
一口に翻訳者認定・通訳者認定といってもそれぞれいくつかのレベルが存在し、申請者の翻訳(通訳)能力と既に取得している認定資格によって得られる認定資格が異なる。
いずれにせよ上に挙げたどの方法でも同じ認定資格が得られるとてっきり思っていたのだが、どうやらそうではなく、申し込む方法によっても取得できる認定資格に違いがあるようだ。

1.NAATI認定試験の受験
まず、試験による認定制度について、最新版と思われる2012年10月時点での試験要項をもとに認定資格ごとに出題形式と合格基準も併せてマインドマップにまとめてみた。
この方法で取得できる認定資格は以下。
翻訳者認定
  • Paraprofessional Translator(レベル2)
  • Professional Translator(レベル3)
  • Advanced Translator(レベル4)
通訳者認定
  • Paraprofessional Interpreter(レベル2)
  • Professional Interpreter(レベル3)
出題形式と合格基準

これとは別に、2010年10月付けのNAATI認定資格概要では、認定資格について以下の種類が挙げられている。それぞれシニアが最上位の認定資格である。
翻訳者認定
  • Translator Recognition
  • Paraprofessional Translator(レベル2)
  • Professional Translator(レベル3)
  • Advanced Translator(レベル4)
  • Advanced Translator(シニア、レベル5)
通訳者認定
  • Interpreter Recognition
  • Paraprofessional Interpreter(レベル2)
  • Professional Interpreter(レベル3)
  • Conference Interpreter(レベル4)
  • Conference Interpreter(シニア、レベル5)

比べてみるとわかるが、これらのうち、最初にまとめた認定試験制度の試験要項にはConference Interpreterの記載が無い。最上位資格であるこの認定資格は試験では取得できないということなのだろうか。
翻訳者資格認定については、Advanced Translatorの資格が1つしか記されておらず、2010年以降一つの資格に統合されたのかどうかなど、特別な説明が見つけられなかった。
また、「レベル5」というような呼称も、2010年の資料の時点で"formerly known as level 5"のように記載されているため、現在では用いられていないように聞こえる。

この不明点を明らかにするために、次回の記事では認定試験以外の方法による認定資格取得についてみていこう。

2012/11/11

バイト先の同僚のグチを聞いて学んだこと

今は某レストランで働いているのだけど、先日、バイト上がりに先輩と一緒にカフェに行って先輩の漏らすバイトのグチをたっぷり聞いてきた。・・・と、こういう風に書くと、タイトルを見て「あーグチ聞くのつらかったー」とか、「グチを言うのは良くない」みたいな展開を想像するかもしれないけど、そうではない。むしろ彼女の話を聞くのは凄く面白かった。これは彼女がこの記事を見るかもしれないから保険のために楽しかったと書いているわけではなく、本当に面白かった。興味深かったというべきかな。恐らくグチを語った彼女自身は、「あかし君にグチを語り尽くした」みたいに、もしかしたら申し訳なくすら思っているかもしれないけど、俺としては、他に誰もいなかった店内に何時の間にかお客さんが溢れているのにも気づかなかったほど楽しい時間だった。そして、この時間を振り返ってみると多くの学びに満ちていることに気づいたため、こうして記事に残しておくことにした。念のため、これから記す内容について彼女をディスる意図は一切ない。むしろ彼女はとても魅力的な人で、バイト中にはいつも助けられてます。

1. 誠実に生きることの大切さ
この日カフェで彼女のグチを聞くことになったきっかけは、バイト中に彼女がイラっとさせられたあるちょっとした対立だった。些細なコミュニケーションの食い違いで別の同僚との小さな対立が生まれ、そのおかげで彼女はイライラしてしまい、彼女と同時に勤務が終わった俺にその時の様子をグチとして語り始めたのだった。彼女は対立したその人物について、カフェに着く前から日頃気になっていたアレコレを個人的エピソードと共につらつらと勢いよく語っていったのだけど、その話を聞いて、俺自身が抱いていたその人物に対する印象と彼女のそれとで、真逆に近いほど違っていることに驚かされた。既に想像出来るとおり、彼女のその人物に対する印象(≒評価)は、日頃から溜まっていた鬱憤もありあまり良いものとは言えない。かたや俺が抱いていた印象というものは、よく冗談を言う気さくで接しやすい人物、というものだった。数年働いていて職場の面々についてよく知っている彼女が語る件の人物像というものは、このバイト先に入ってまだニ、三ヶ月足らずの自分にはとても具体的で、自分の知らなかった二面性を覗かせてくれる意外性に満ちたものばかりで、自分の抱いていた印象とのギャップを楽しむかのように、「へ~!」と、感心に近い嘆声が終始止まらなかった。

彼女の話に耳を傾けながら、この感覚は会社員時代にも味わったことがあるな、と思い出していた。ある役員の評価について、ある課の社員たちは「Aさんは凄い。あの人はいざという時はキチッと責任を取ってくれる。役職付きはこうでなくちゃ。」と口を揃えていたのだが、別の課の飲み会に参加してみると、「あの人はダメだよ、責任丸投げ。」と、まるで逆のことを聞かされ、ひどく驚いた。同じ一人の人間でしかも会社という同じ組織の中にもかかわらず、相手によってこうも評価が変わるものなのか、これじゃあまるで別人の話じゃないかと耳を疑うほどだった。人の評価は評価者によってマイナス100からプラス100まで変わってしまうのだということを肌で感じ、彼女のグチの内容は会社員時代に得たその教訓を思い出させてくれた。

言い換えればつまり、俺の発言や行動も、人によってプラスに評価されることもあれば、マイナスに評価されることも当然ある―いや、既にその二つのジャッジを常に同時に下され続けているだろう、ということを彼女の話に気づかされた(当たり前ではあるけど)。その状況で大切なのは、自分自身、あるいは周囲の存在、もしくは組織や社会全体にとって良いことは何かを常に考え、変に媚びへつらったり何かをてらったりすることなく誠実な態度を見せることだろうなんだろうなと感じた。人によって評価の基準は異なる。プラスに評価してくれる人がいるということは、マイナスに評価する人も当然いる。自分を取り囲む周囲の人数が多ければ多いほど、全員にプラスの評価を下してもらうことは難しくなる。そのような状況で打つ芝居や虚飾の言葉は一瞬でバレてしまい、信用を大きく失う。ならば、たとえ自分の言動が一部の人の反感を買うことがわかっていたとしても、自分が正しいと思う限り、誠実に、正直に伝え振舞うことが大事なんだろうな、と考えさせられた。

常に誠実に生きることは難しいだろう。組織や社会のしがらみでの中で生きていれば、時には日和見的に振舞ったり、八方美人や面従後言でいる方が良い場合もあるかもしれない。それに、人間の悲しい性か、常に聖人君子然としている人は逆にどこか嘘くさく、人間的魅力に欠けて見えてしまうことも少なくない(だからこそグチを吐く彼女という存在について、俺は魅力的な人間だと感じているのだろう)。所詮は綺麗事かもしれない。しかしまぁ、そんな小難しいことは抜きにして、誠実に生き、そして周囲から誠実な人間だと思われたいなぁ、ということを耳を傾けながら思った。

2. 昔に比べて大人になった
こんなことを言うとキザっぽく聞こえるかもしれないけど、彼女のグチを2時間聞いた自分をハタと振り返ってみると、昔・・・特に大学時代の自分と比べると随分大人になったなぁと思う。昔は人のグチを聞くなんて行為は究極の時間の無駄としか思ってなかった。当時の自分なら、グチの止まらない彼女をコーヒーへと誘ったりなんて絶対してないだろうなぁと思う。昔と違って、今は何というか、自分とは無縁の世界にももっと興味を持つようになったというか、自分との接点の見えない他者やその人の話にも興味を持つ精神的余裕を持てるようになったと思う。大学時代や会社員時代の頃は、興味に自覚的な人や話題にしかコミットしなかった。自分が好きか嫌いか、興味があるか無いか、あるいはメリットがあるかどうかなど、損得を考えた人(モノ)付き合いしかできない節があった。だから、仕事が終わった後などの友達からの急な「今から会えない?」とかの連絡も、ホントは家に帰っても何もする予定がないにもかかわらず、「あー今日は忙しいから無理だわごめん」とか嘘ついたり。ある意味正しい選択でもあるのだけどね、場合によっては。今は、一見無駄に見えることに対する時間の投資にいくらか重きをおくようになった。以前よりセレンディピティー(思わぬ収穫)をいくらか重視するようになったというか、「期待はしないけど結果的になんかあったらラッキーだな(・∀・)」という視点で外の世界と関わりを持つ余裕が生まれるようになった。無機質で高尚な言い方をすると、ボランティア精神に芽生えたというかwこんな書き方をすると誤解されそうだけど、他人の話を聞くことが無駄だと思っているわけではないです。かつてはそう思っていたけど、今は利の見えないことでも楽しもうと思えるになった、という話です。

こういう風に自分の振る舞いや思考の変化を見つめ直すと、ある程度、こんな自分でもそれなりに成長したんだろうなぁと思う。でも、俺の中でなんとなく、「成長すること=大人になること=老けること」っていう変なイメージがあって、「年を重ねて肉体が衰えてもいつまでも童心を忘れずにいたい」と願う逆コナン志望の自分としては、自分のこの成長はとてつもな~く激しい精神的老化現象のような気がして、素直に喜べなかったりする。だから、どっちかというと「昔に比べて成長したなぁ。」というよりも、「昔に比べて老けたなぁ俺も・・・。」みたいな諦観たっぷりの捉え方の方が大きい。実際、実年齢より年上に見られることが多いしね。「なんだか落ち着いてるね」と言われることはよくあるし(会社員時代にも、今のバイト先でも言われた)、この前なんて、バイト先の上司に連れられて行った夜のカラオケでは、パスポートを見せた入り口の店員に「お前ホントに25か?」と驚かれた。「そんなに老けて見えるのかよ!?」とツッコんだら、「いや横にいるツレ(40代)が若く見えるんだよふがふが」と必死に弁明しておりました。
実際のところ、こういう思考が雰囲気に滲み出ていて、それが老けた印象を与えてるのかも・・・という予想もできるんだけど、でも、ここや以前のブログで述べてきた諸々の考えは、一応ハタチを超えた大人なんだし、周りの友人や同世代の人々も持ってるごくフツーの思考のはずで、決して達観したものではないはず。・・・じゃあ何で俺だけ老けて見えるんだよ?とまた振り出しに戻る。自分という人間を理解することは難しいですね。・・・白髪が多いからか?w

3. グチ話がグチ話で終わるかは聞き手次第なのかも
「嫌なことがあったから友達にグチを聞いてもらってガス抜きをする」という行為は、「聞き手は我慢して相手の話に耳を傾け、ストレスを相手から吸収する」という助け合いのカウンセリングのようなコミュニケーションだと思う。実際、何人もの患者の悩み相談を受けるプロのカウンセラーはストレスを溜めやすく、心の健康を崩しやすいそうだ。けど、最初に書いたとおり、彼女のグチ話を聞いたあの二時間は楽しく、むしろグチ話を聞かされたという感覚すらない。もしかしたら、グチ話がグチ話に終わるかは聞き手のコミュニケーション能力次第なのかも、と思った。

以前はグチを聞くのは究極の時間の無駄だと思っていた―ということを上に書いたけど、その若かりし時代(笑)には、男性と女性のコミュニケーションは全く別物で、男性のコミュニケーションが「見栄と競争」であるのに対して、女性のコミュニケーションが「共有と共感」であるということを経験として理解していなかった(それぞれ俺の勝手な定義です)。たとえば男性の場合は、「どちらがより優れているか」という動物的本能が常に潜在意識にあるので(と俺は解釈している)、自分の印象が悪くなる話(失恋、トラウマ、失敗談などなど)は、よっぽど仲の良い相手以外には語らない。笑い話になるレベルの話は別として。そのため、往々にしてプライベートな話(特に過去の話)はお互いにほとんどしない。悩み相談もしない。なぜかというと、「こんな悩みがある」ということを相手に告白するということは、自分の欠点や弱点を相手にさらけ出すことになってしまうから。実際、俺も男友達は沢山いるけど、彼らの家族や昔の彼女にまつわる話など、俺と出会う前の彼らの過去は全く知りません。極論すると、今の彼らを作り上げている過去のことは何も知りませんw 女性からすると上っ面の関係に見えてしまうかもしれない。どこか切った張ったの世界がある感じ。

ところが、女性の場合は自分の内側をどんどんさらけ出してお互いに共有し、その話に全員が共感することで連帯感を高め絆を深めるコミュニケーションを取る(だよね?)。そこが本質なので、実際には相手の意見はどうでもよく、とにかく共感するのがルールみたいなところがある。女子会とかも、男性がその場にいては言えない暴露話を共有し、「こんなことを共有してるウチラってマブダチだよね!」と確認する場として機能しているのではないかと思う。「新しい服を着ているのに気付いたら可愛いと言わなければならない(たとえ似合ってないと思っていても!)」という女性特有のルールはこの共有と共感のコミュニケーションの好例だと思うのだけど、これは男性にはとても滑稽なもので、そこが男性にとっては上っ面な関係に見える部分。お互いにグチを話すという行為も女性のコミュニケーションをよく象徴しているなぁと思う。実際、男性はお互いにグチ話をしないしね。それはやっぱり自分の弱点を晒すことになるから。

・・・と、前置きが長くなったのだけど(偉そうにこういうことを書くとディスられそうw)、男性と女性のこのコミュニケーションの違いを、当時は理解していなかった。だから、グチ話や悩み相談をされる時も、「ただ話を聞いて頷いて欲しい」「背中を押して欲しい」ということを相手が望んでいると知らず、理路整然と自分の意見(時には相手の考えを否定したり・・・もちろん相手のことを思って)を述べてしまい、結果的に何も変わらない相手を観察して「俺が割いた時間は無駄だったじゃねーか!」と思ってしまっていた。コミュニケーションのチャネルが一致していなかった感じ。だから、当時は「グチなんて話す暇があれば行動しろ」とか「どうせ何も変わらないんだから鏡に向かって話しとけばいいのに」みたいな結構酷いことを思っていたw

けど今はある程度大人になった(笑)ので、女性のコミュニケーションが「共有と共感」であることを知っている。今は女性の話を聞く際には自然とチャネルを切り替え、相手から求められない限りは極力自分の意見や解釈を述べず、ただ相手の話に傾聴する―ということができるようになった(昔よりはね)。そのおかげで、「この人はどんなことでどんな反応をするのだろう?」と、相手の話から透けて見える価値観を知る楽しみを覚えるようになった。そして、このコミュニケーション方法によってその人物のことをより深く知ることができるようになる、ということを体系的に理解できるようになった。このことに気付いた時から、昔に比べて自分の話で会話を独占することが少なくなり、そして上に述べたように他人やその人の持つ話に興味を持つことができるようになった。だから、彼女のグチもただ単にグチではなく、彼女という人間の中の一つのコンテンツのような感覚で楽しめたんだと思う。グチ話に対して「あーしんどかった」とか「この前はグチを聞いてもらったから今回は聞いてあげなきゃね」みたいな感覚を持つかどうかは、聞き手のコミュニケーションに対する考え方と、そして会話中のちょっとしたテクニックにかかってるんじゃないかな、ということをこの時間を振り返って思った。

あっという間に過ぎた二時間だったけど、振り返ってみるとこれだけの示唆に富んでいた。これもセレンディピティの賜物かな?w


―セレンディピティは、偶有性の海の中にある
http://matome.naver.jp/odai/2135172458847154701

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