このエントリーをはてなブックマークに追加
ラベル 文化 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 文化 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013/09/15

まさかこんなものが日本特有の文化だったなんて・・・

先日、台湾人の友人に電気あんまをしたのですが(何歳だお前は)、なんと、やる前に説明をしても全く伝わらなかった。「ほら、小学校の頃に教室の後ろのほうで男子がふざけてやってただろ!」と説明しても伝わらず。実際にやってみせたのだが、そんな遊び知らんという。で、気になってWikipediaのページを参照してみると日本特有の遊びであることが発覚!知らなかった・・・!!
電気あんま(でんきあんま)とは二人で行う日本特有[要出典]の遊びであり、一方がもう一方の股間に足を入れぐいぐいと揺らすものである。行う際に足を入れる側がもう一方の両足を掴んでよりしっかりと股間に足をあてがうことが多い。
でもwikipediaにそう書いてあるだけだし、その根拠を示す資料も提出されていない。本当に日本特有の遊びなのか謎である。ということでググってみたところ・・・スラング辞典Urban Dictionary.comで電気あんまの項目を発見!英語では"motorcycle"と表現するようだ。この項目の7番目の定義に目を通してみると・・・。
the act of grabbing the legs of a person like a handle on the motorcyle. and putting the foot on the crotch of that person shaking your leg violently. this will cause soreness of the testicles which will last for at least 2 days
「一人の両脚をバイクのハンドルのように抱え、その間からその人物の股間部に当てた足を乱暴に揺する行為。睾丸部に2日は引かない痛みを引き起こす。」と書いてある。海外の電気あんまはかなりハードコアな遊びのようである。

そんなエクストリームスポーツ化しそうな海外の電気あんまの映像がこちら。海外の電気あんま師たちの間では複数プレイが定番のようですね。さすがエクストリーム。


こういう日常的なところに潜む異文化ってなかなか気づきにくいですね。気づけて良かった。いや、でもタイトルと記事の最終的な内容が一致してないなwまぁいいや。

2013/07/28

される差別とする差別

アジア人の多くは、映画やテレビに登場する欧米圏の人々を観察することで、彼らはアジア人に比べて、気さくで明るく、フレンドリーだという印象を抱くようになるだろう。日本人と比べてみても、欧米人は自らの感情に対して開放的で、人前で強い感情を表すことを恥と感じる我々とは対照的だ。本気で怒った時はかなり怖いが、その分、ポジティブな感情も同程度に表現するため、彼らがどのような感情を抱いているのか非常にわかりやすい。オーストラリア人も同様で、陽気でフレンドリーだ。移民国家という歴史もあって、市民は外国人と接することに慣れているように見える。早朝の通勤時やジョギング中など、道端ですれ違えば、「Hi!(やぁ!)」、「G'day, mate!(こんにちは!)」と挨拶を投げかけてくれる地元の人によく遭遇する。これが都会に限らず、田舎でも同じだから彼らの懐の深さに驚かされる。私のように日本以外の国に長期間滞在することが初めての者にとっては、オーストラリア人のこの人懐こさには驚かされるだろう。そして、「欧米人はアジア人に比べて開放的だ」という一般化されたイメージをより強めることになる。実際には、欧米圏のこうしたコミュニケーションは、見知らぬ人同士でも挨拶や世間話をすることで、お互いに敵意や悪意が無いということを確認する役割を持っている。たとえば、深夜に帰宅したマンションで見知らぬ人と二人きりでエレベーターに乗る場合などは誰しも不安を感じるだろう。赤の他人と言葉をかわす欧米式のコミュニケーションは、そのような場合における緊張をほぐす役割を担っており、実際、エレベーターやコインランドリーなど、狭い空間に人が集まる場所においてこのようなコミュニケーションはよく見られる。

される差別
見知らぬ人とこうした挨拶を交わすことに慣れていないうちは、突然の出来事にどう言葉を返して良いかわからず、驚きを感じながらも、この恥ずかしさを「楽しむ」ことができるだろう。しかし滞在期間が長くなるにつれ、オーストラリア人は必ずしもフレンドリーではなく、むしろ差別主義者の色が強いということに気づかされることになる。私の場合は、ジョギング中に、わざわざ車道を走る車の窓から中指を立てられたことがある。ある晩にクラブ街で日本人の友人と食事をしていた際には、気分の高揚した地元の若者集団に気さくにハイタッチを求められ、二言、三言言葉を交わした。それだけならば、「さすが、陽気で開放的なオージー(オーストラリア人)は酒を飲むとその性格が顕著になるな!」という美談で済むのだが、その直後、彼らに背中を向けその場を離れようとした際、「ヘイ!ファックユー!!」と何度も叫ばれた。要はからかわれていたのである。酒を飲むと人はつい本音が出てしまうものだが、この時の出来事は差別的なオーストラリア人の隠れた性格を見せられたようで大きなショックを受けた。他にも、フードコートで順番待ちをしている間に後ろの若者(女の子2人組であった)に背負っていたリュックにイタズラをされ、文句を言いに行くと「Asshole!(くそったれ!)」と罵られたこともある。この際も酷いショックを受けて、彼女らが視界に入るその場所で食事をする気になれなかった。

アジアの海を超えた時点で、アジア人にとって差別は宿命になるのかもしれない。衣食住全てにおいて充実している日本社会に住む多くの日本人にとって、わざわざ日本の海を渡り海外に移り住む必要性はほとんど無い。しかし、一度海を渡れば日本人も差別の対象になるのだという事実をいざ知った時、その衝撃は耐え難いものになり得る。日本の製品、料理、漫画・アニメは世界中で賞賛を浴びているが、それで日本人全体が尊敬の対象になったかというと、そうではなく、依然として差別の対象となっているのである。


こんなに沢山のジャップが泣いているのを見るのはヒロシマ以来だ
アメリカが日本を抑えて金を獲ったな・・・パールハーバー(真珠湾攻撃)の仕返しだ!




2011年の女子ワールドカップ決勝(日本対アメリカ)時には多くのアメリカ人が日本人に対する差別発言をネット上に呟いていた。

Racist Tweets After U.S. Soccer Victory Over Japan: “Japs” & “Pearl Harbor” Trending
http://www.japanprobe.com/2012/08/10/racist-tweets-after-u-s-soccer-victory-over-japan-japs-pearl-harbor-trending/


こうした差別に直面した場合、どう対処するべきなのだろうか。何事も穏便に済まそうとするのが日本人の「思いやり」だが、日本人は舐められているという事実に気づいた時、挑発的な差別にはしっかり反抗するべきではないかと葛藤するきっかけになる。しかし、挑発的な態度に挑発的な態度で以て臨むことは、結局、同じ穴の狢―自分を社会的常識に欠ける人々と同じ地位に落とすことと同義ではないか。では、黙ったまま心の中で相手を卑下し、ルサンチマンに浸り自分を慰めれば良いのか。葛藤は深まるばかりである。

インターネットが普及して10年、LCC(格安航空会社)が登場して数年。人種間の距離は益々縮まるばかりだが、差別に直面すると、これらが人種間の相互理解を促進し差別を減らすことに何ら寄与していないのかと悲しい気持ちにさせられる。私自身も、上に述べた個人的体験のせいで、一時期オーストラリア人不信に陥ったことがある。こうした体験が重なると、彼らの見せる笑顔は本物なのだろうかと疑心暗鬼に陥り、次第に自ら心を閉ざし、他者との接触を絶ってしまうようになる。


する差別
日本を離れてみない限り、こうした差別について理解することは難しいだろう。その意味で、実際にその身で差別を受け、この事実を知ることは非常に重要だ。なぜなら、人は多くの場合において、実際に自分が被害者になるまで痛みを理解することができないからだ。苦痛を受けて初めて、人は他者への振る舞いを振り返るのである。人種差別をされることで、人種差別が人に与える苦痛を知る。そして、私はオーストラリアで人種差別を受けたことではじめて、我々日本人も人種差別をしているという事実に気づかされたのである。その一番の標的は、中国人と韓国人だろう。

中国人や韓国人に対する差別的発言は、インターネット上でいくらでも散見できるが、私自身は、多くの日本人は分別をわきまえ、実社会では彼らに対して差別などしていないと思っていた。善悪問わず、誰もが個々の人種に対する印象をある程度持っているものだが、事実、我々日本人の持つ外国人へのネガティブなイメージは差別として実際に我々の態度に反映されているのである。そのことに我々日本人自身が気づくのは非常に難しい。なぜなら、偏見や異文化に対する無理解、あるいは政治絡みの軋轢が人々の頭にネガティブなイメージを作り上げ、それがやがて無意識な差別へと結びつくようになるからである。たとえば、中国人は列に並ばない、食事の仕方が汚いという話は誰しも聞いたことがあるだろう。このような話を何度も繰り返し聞かされることで、やがて「中国人はまともな教育を受けていない、教養がない」という風に、独善的価値観で他者を判断し、次第に見下した態度を取るようになってしまうのである。そして、そうした態度の多くは無意識のうちに表れるのである。

私自身がそうだったように、無意識の差別を意識する方法は、自分が差別される以外にないだろう。



オーストラリア人の差別に話を戻そう。オーストラリア人の外国人差別には歴史的背景が影響しているのかもしれない。今日のオーストラリアが移民国家として成立している背景には、イギリスの植民地時代に流刑地として利用されていたという歴史が関係しているが、その歴史においては白豪主義と呼ばれる人種差別的な移民政策が採られており、先住民族の排除政策の後、経済の転換期には諸外国からの労働者流入を阻止する動きが起こったからである。

そして、今後オーストラリアでの外国人差別はますます顕著になるのではないかと私は予想している。なぜなら、地元民の労働機会確保を目的とした差別が起こった当時と同じ雰囲気が今日のオーストラリアにも広がっているのではないかと感じているからである。世界経済の低迷期において、現在のオーストラリアは多くの外国人にとって格好の労働市場だ。オーストラリア政府は今年度上半期におけるワーキングホリデービザの発行数が前年同期比20%も上昇したことを発表しており、自国で職に就けない若者たちが移民を労働力確保の手段としているこの国に大挙して押し寄せている事実を如実に伝えている。それに加え、鉱業によって一時活性化されていた国内経済は好調期を過ぎ、失業率が上昇するなど陰りを見せ始めている。こうした状態が今後も続けば、移民や短期の外国人労働者による職業収奪に対して地元の人々はより危機感を募らせることになる。その帰結として、オーストラリア人による潜在的外国人差別は表面化し、やがて強まることになるだろう。

こうした一連の体験と思索の先に、私には日本が透けて見える。なぜなら、日本でも、今後労働力確保の手段として移民が増えることが予想されるからである。

過去2,3年、特に私が日本を経つ直前の頃、東京を中心とする首都圏のコンビニで急激に中国人店員の採用が増えたように感じた。会計の際に店員のネームプレートに目を向けると、そこにある名前は決まって中国系のものだった。日本人の店員を見つける方が困難と感じたことさえあり、その突然の変化に恐怖に似た驚きを感じたことをよく覚えている。現代オーストラリア人の外国人差別が移民による職業収奪への危機感に起因する部分があるとすれば、同じ事が今後の日本にも起こるだろうと予想することは決して的外れではないだろう。あるいは、謙虚さが美徳とされる日本では、より陰湿なものとなって表れるかもしれない。

少子化で国内労働力が縮小する一方の日本社会。近い将来、より多くの移民が連続的に流入するようになった時、我々日本人は彼らにどのような態度を見せるのだろうか。差別を受けたことのない人々が想像力を働かせ、個々人が社会との調和を保ちながら自己の向上に努めることが当たり前の世の中になっていくのか、それとも・・・。日本人の器が試される時が近いという気がしてならない。

日本での差別体験の有無について、中国青海省出身の友人が答えてくれた。

日本に住んで長い友人が差別を受けたことがないことを知り、嬉しくなった


今後、社会を生きる上で、「想像力」という言葉が重要な意味を持つキーワードになっていくと私は考えている。

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい。そうあるべきであり、そして、それを感じる瞬間は、他者に対して想像力を働かせた時か、あるいは、他者がそうしているのを目撃した時だけだからである。


2013/07/14

ちょっと困惑することがあった

つい先日、困惑することがあった。友人たちと話していた時のこと。今思い出してもどう理解して良いのかわからず、頭の中を整理できないため、この内容も支離滅裂になものになっているだろう。

ちょっとしたホームパーティーに参加し、みんなで夕食を食べたのだが、参加者の中に日本人は俺一人で、10人程度いるメンバーはみな同じ国の人たち。俺と話す時は英語で会話していた。

そのうちの一人が、「いつか日本(か沖縄)に行くからその時はガイドと宿泊場所と食事もろもろ全部提供してね!往復の航空券だけ自分で負担するから!」と言ってきた。まぁ冗談だろうと思いながら、相手の調子に合わせて「てことはつまり俺に会うのが楽しみだから会うわけじゃなく、あくまで俺を利用して俺の故郷をタダで満喫するために俺に会うわけだな!?」と皮肉っぽく返した。すると、相手は「I'm just kidding! lol You're too serious!(冗談だよ~真剣に捉え過ぎ!)」と返してきた。冗談ならもっと面白い言い方しろよ・・・と思いつつ、苦笑しながら一度は適当にやり過ごした。だが、その後も件の人物はことあるごとに同じことを何度も言ってくる。段々俺の方も、「こいつ多分マジだな・・・」と思い始める。相手が同じことを何度もいうもんだから、俺も上に書いたことを再三繰り返す。その度に相手は「You're too serious!」を返してきた。しまいにはその話を聞いていた他の人たちまで同じことを俺に言ってきた。たとえ冗談でも、何度も金を無心されるちょっと・・・と辟易すると同時に、向こうの言い分は周囲も冗談と認める一方で、俺の返事はなぜか冗談と捉えられなかったことに違和感を覚えた。俺としては、相手と同じ調子で返したつもりだったのだが・・・。その後もこのことが頭に残ったままで、その夜はずっとモヤモヤとした気持ちが消えなかった。いまだに、何故彼女のセリフだけが冗談とみなされ、俺の返事は冗談と認識されなかったのかわからない。

宴もたけなわを迎え、そろそろ帰るかという頃合いに泊まっていくように勧められた。正直、モヤモヤイライラしていたため、帰って一人の時間を過ごしたかった。帰りたかったし、こんな気分の俺が残って泊まってもみんなに迷惑をかけるだけだろうと思っていた。そうこう考えている間に、住んでいる一人が空き部屋を綺麗にしたからそこで寝るといいと言ってきた。陰鬱な気持ちを抱えたまま案内されるがままに覗いてみると、そこには友人の荷物が色々置いてあった。「荷物を置いているだけで別の部屋のベッドで寝てるから気にしないで」と言われるが、その荷物の持ち主はその夜初めて会った人で、しかも女性だ。気の置けない男友達の荷物がある部屋ならまだしも、全くと言っていいほど知らない人間。そんな部屋に寝るのは図々しいし失礼だと思った。だから、「親切にありがとう。けどいいよ。荷物を置いている彼女に悪い。今日は帰るよ。」と断ったのだが、向こうもいいから泊まっていけと食い下がる。それでも再度断った。「そっちが気にしなくても俺が気にするから。マジでありがとう。」と言うと、また「You're too serious(お前は真面目すぎる).」と言われてしまった。その言葉にウンザリしてしまった。

結局、運転担当だった別の友人が俺が泊まると勘違いしてしまったため置き去りにされ、その晩はその好意に甘えることを余儀なくされた。。

以前の記事でピア・プレッシャー(同調圧力)について少し書いたが、彼らの申し出を断る俺に対する彼らの態度になんとなくそれを感じた。 もちろんこの晩の友人たちはみんな親切で俺も好きだが、この一連のやり取りの時だけは、俺の意見が尊重されていないような気がした。「親しき仲にも礼儀あり」という価値観が彼らの文化には存在しないのだろうか?とさえ思ってしまった。そんなことはないはずなのだが。

自分でも、自分が人より少し真面目すぎるところがあることはわかっている。その原因は両親が離婚し片親・一人っ子で育った環境にあると思っている。今考えれば一人で過ごす時間が他の子供より圧倒的に多かっただろうし、一人っ子だったから、身近に相談できる人もいなかった。だから、自然と全て一人で考え、一人で行動するように育ったのだと思う。良く言えば、少しばかり自立した人間に育ったと思う。一方で、人に助けを求めたり好意に甘えたりすることが苦手な性格にもなってしまった。それでも、今まで日本で生きてきた中で「お前は真面目すぎる」なんてことをいきなり会話の中で言われたことは一度も無かった。覚えている限りは。その言葉を何度も何度もぶつけられたものだから、俺のこの性格がおかしいのだろうかとさえ思ってしまった。もしかしたら、日本でそう言われたことがなかったのは、幸運にも俺の友人たちが俺のことをよく知っていて、俺が皮肉屋で感情をあまり顔に出さない人間だということをよく理解してくれていたからかもしれない。もしそうならば、残念なことに、この晩の友人たちとの友人関係はまだまだ浅く表面的で、お互いを十分理解できていないものだということになる。まぁ、会ってたかだか数ヶ月程度で人を知った気になるのもおこがましいことだけど。

多分、「You're too serious!(お前は真面目すぎる)」と言われるたびにため息が出るような気分になったのは、そんな自分の自立した意見や性格が尊重されず、好意に甘えることを強制されているように感じたからだろう。あるいは、一対多数で日本人的思考が理解されなかったことに苛立ってしまったのかもしれない。もしかしたら、彼らの文化では人間関係は距離感の近いほど良しとされていて、友人の好意に甘えないことは逆に失礼で友情に背く行為だとみなされているのかもしれない。そう考えるなら、あのタイミングで申し出を断った俺が変に見られるのも当然だろう。しかし残念ながら、俺はどちらかと言うと、付かず離れずの距離感が最適な人間関係もあると思っているし、育った環境のせいもあって、多くの人と四六時中やんのやんのするよりは、70%の時間を一人で過ごしたいと思っている。自分がどうするか、どうすべきか、どうしたいかぐらいは自分で考えて決めたい。他人の意見も尊重するから、他人には俺の意見も尊重してほしいと思っている。それが無視されたような気がして、その夜は一気に気持ちが冷めてしまった。

もしかしたら、俺が認識している彼らとの距離感と、彼らが認識している俺との距離感には大きな違いがあるのかもしれない。この二つのできごとはそれを示唆しているような気がした。

少しばかり時間が経って、思いつく範囲で原因を考えながら気持ちを整理してみた。上に書いたことが正しいことなのかか全くわからないが、少しは気持ちが落ち着いた。この文章を読む多くの人も、俺は真面目な人間だと思うのかもしれない。そう言えば、会社を辞める時も、理由を伝えた上司に真面目だと言われたっけ。

良くも悪くも、異文化コミュニケーションというのは難しい。自分の認識の甘さを痛感させられた気がする。

2013/07/11

オーストラリアの小ネタ色々

今日はオーストラリアで気付いた日常のカルチャーショックを色々紹介。

1. ギフトカードの種類が多い

ギフトカードと言えば日本ではiTunesカードと、あとプレステやWiiのネット対戦を利用するためのカードしか見たことがないのだけど、こっちでは他にも種類がたくさんある。映画館のカードや音楽視聴サービスの課金カード、トイザらスのカードもあった。Facebookのカードなんてのもあるのね。

2. ホットスパーがある
セブンイレブンはあちこちに沢山あるのだけど、まさかホットスパーもあるなんて知らなかった。日本では都市部ではなく地方で展開されているこのコンビニ。上京して大学生になるまでは沖縄にしか思っていた。日本では確か数年前にココスという名前に変わっていたと思うのだけど。まさかオーストラリアで見ることになるとは・・・。心底驚いたので写真に撮っていた。

3. 警察と市民の仲がいい
日本では警官が市民と肩を並べて雑談をしながら歩くなんて絶対に見ないですね。いかにも海外っぽい光景。実はこの時は昼休み中だったのだけど、あまりに興味を惹かれたので食事を忘れて20分ぐらい尾行して観察してしまいました。日本の警察もこれぐらい市民に寄り添ってもいいのでは。

4. 洗剤の容器にジュースが入っている

日本では洗濯用洗剤や柔軟剤にしか使われないこの形状のボトル。海外では普通にジュースにも使われてたりします。ちなみにこれは濃縮ジュースで水に薄めて飲むタイプ。最初これは見た時はこの色とこの容器の形のせいで飲む気がしなかった・・・がそれも今は昔。ジュースおいしー。

5. コーラの種類が多い
やたらと種類の多いコーラ。ペプシだけでも4種類ぐらい。コカ・コーラも3種類ぐらい?その他諸々。日本のイオン系列のトップバリュのように、オーストラリアのスーパーもプライベートブランド(自社ブランド)を展開している。右写真の右のコーラは安い。1.5リットル90円を切っている。まぁ僕はコカ・コーラ以外は認めませんが(キリッ

6. マックのソフトクリームが30円
少し前に値下がりして30セント(大体30円)に。ただしサイズは日本の半分ぐらい。100円無くてもマックに行こう!

こんな感じかな!また何かあったら第二弾をやります。

2013/07/04

台湾人が異常に優しいんですが一体何なんでしょうかこれは

ここ最近台湾人と接する機会が多いのだけど、彼らはみんな超フレンドリー。フレンドリー過ぎて驚きます。
何か裏があるんじゃないの?と思ってしまうぐらい。今日はそんな台湾人のナイスっぷりを紹介。

出会って二日目なのにこんな書き置きを残してくれました。優しいですね。ホロリ。

別れの際にはわざわざ手紙をくれた。読めねえええええ。


あと、この動画を見て台湾人が好きになりました。

台湾人は親日・・・という話は日本でもよく聞くけど、実際に接してみるとやっぱりそうなのかなーと感じる。向こうでは日本語オンリーのテレビチャンネルがいくつかあって、ちびまる子ちゃんやら名探偵コナンやらを放送してるみたい。日本の商品も沢山ある様子。少年ジャンプもあるんだって。
なぜか「宝島少年」になっている

これは台湾人だけでなく、香港人、そして中国本土出身の人達にも共通して見られることなのだけど、彼ら中華系民族はみな友情に厚い。滞在先のホステルで彼らの夕食を観察していると、毎晩家族のようにみんなで集まって楽しそうに食卓を囲んでいて、観察した限りでは、一人で食事を摂ることを好む人は彼らの中には見たことがない。少子化によって核家族化した社会で孤食をして育つことの多い日本人との違いがよく見える。

表面的には中華系民族のこの情の厚さは素晴らしいなーと思う一方で、日本よりコミュニティ内の同調圧力が強いのではないかとも思う。これは完全な憶測でしかないのだけど、孤食で育つ日本人は個人主義的なふるまいに対して比較的寛容なのではないかと思う。一人で食事を摂っている自分が他人から悪く思われていないかを過度に気にする「ランチメイト症候群」なんて言葉があるけど、それはあくまで望まずに孤立してしまった側が帰属意識を求めるパターンで、自ら孤立することを能動的に選んだ人に対して「あいつは一人で飯を食って一体何なんだ」と文句をいう人の話は聞いたことがない。もちろん、日本にも「出る杭は打たれる」だとか、「空気を読む」と言った風にグループに所属しない個人を叩くような全体主義重視の価値観はあるのだけど、少なくとも食事ごときで個人を非難することはないと思う。じゃあ台湾人、香港人、あるいは中国本土の人がそういう真似をしているのを見たことがあるのか?と聞かれるとそれもないんだけど。じゃあ何なんだよ、と言うと、そういうほんの僅かな差でしかないのかもしれないけど、個人主義に対する寛容性は、比較的日本人のほうが大きく、彼ら中華系民族の社会では、日本よりは「空気を読め」感、いわゆるピア・プレッシャーが強いのではないか・・・ということを、彼らの食事の風景から垣間見える帰属意識を観察していて感じた、ということ。

このことを友人に話したところ、台湾や香港、中国は、実社会はどうあれ、個々人の意識レベルについてはまだポストモダン社会に到達していないのではないか?と意見をくれた。

東浩紀は、ポストモダン社会についてこう述べている。
近代社会は、インフラと価値観の統合を理想とした。たとえば、日本国家に属する人間は、日本人とし ての文化や規範意識を身につけるべきものだとされてきた。それに対して、ポストモダン社会は、誰もが利用可能な必要最低限の共通サービスの上に、市民それ ぞれが自分の好みで選べる多様なコミュニティ・サービスが乗る、という二層構造を理想としている。日本人だからといって、特定のライフスタイルを強制され ることはない。

もし仮に、台湾や香港、中国の社会に生きる人々が、友人の言う通り、個人レベルにおいて依然としてポストモダン的思想に到達できていないとするならば、伝統的、大家族的なコミュニティへの帰属を重視するという価値観は、全体性を重視するモダン社会的思想と一致するし、その帰結として、日本社会よりもピア・プレッシャーが強いだろうという俺の予想も当たらずといえども遠からず、と言えるのではないだろうか。まぁここらへんは完全なる憶測なのであまり深くツッコまないでいただきたいのだがw

ともあれ、彼らの人懐っこさには素直に驚かされるし、なんだか高校ノリっぽいような彼らの性格に感動を覚えましたとさ。たくさん台湾人の友人ができたし、いつか台湾に行かないとなー。



タイミングよくこんな記事を発見したので紹介。これは見たい。

『台湾アイデンティティー』監督に訊く、台湾の「日本語世代」と考える日台関係
http://sankei.jp.msn.com/wired/news/130702/wir13070211140000-n1.htm

2013/07/02

絶対に働きたくないでござる!なオージー社会


オーストラリアでカルチャーショックを受けることの一つに、現地で暮らす人々の仕事に対する価値観がある。基本的に、みんな仕事が嫌いだ。仕事をしないで過ごせたらいいなーと思っている節がある。そんな感覚で仕事をしているもんだから、外食をすると、「こいつありえねー・・・!」と店員のサービス(接客)の質の酷さに唖然とすることが何回もある。たとえば、この写真。

ブリスベンのマクドナルドでセットメニューを注文した時のことだが、渡されたドリンクはカップ全体がびしょ濡れ。これにはなかなか驚いたwこれを手に持って飲めと申すかお主・・・!と驚き店員の顔を見るが、気にも留めない様子。表情に一点の曇もないので、恐らくこれが普通なんだろう。他にも、某インド系レストランのカウンターで、インド人店員の発音が全く聞き取れず4,5回ぐらい聞き返したら思いっきりため息をされたこともある。さすがの俺もこれにはマジギレのあまり「マネージャーを呼べ!」とクレームしそうになりました。やらんかったけど(やれよ)。他にも、お冷を頼むとテーブルの上にドンッと音をたてて置いたり。けれど、店員は怒っているわけでもなく、むしろ笑顔である。日本人にとって、オーストラリアでのこうした雑なサービスは細かい部分に至るまでよく目につくことだろう。逆に、日本のファミレスやレストランで自分がこんな接客をしようものなら、間違いなく上司やマネージャーに注意される。

欧米圏の出身の人々が観察するとまた違う感想を抱くのかもしれないが、オーストラリア人を怠け者だと思っているアジア人は多い。日本人にとっては、上で例を挙げたようにオーストラリアの接客の質は酷く、それが鏡像となって日本の接客レベルの高さに気づかされるきっかけになる。海外での生活を経験したことがあまりない日本人にとっては、日本での接客が「普通」であるからこそ、いざ海外に出てみた時に受ける接客は耐え難い洗礼という風に映るのではないだろうか。

彼らをよく観察してみるとわかるのだが、これはただ単純に接客の質が悪いという話ではなく、もっと基本的な労働観に関わっている。何が言いたいかというと、オーストラリアには仕事なんてどうでもいいと思っている人が多いということである。日本人ほど仕事に真剣に臨んでいないし、日本人ほど責任感もない。彼らにとって仕事とは、「金を稼ぐために、定められた時間、規定の職務を果たさなければならない」程度の認識であり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、給料さえ発生していれば、接客態度の改善や業務の効率化などというものはやる必要のない作業であり、極端に言えばエネルギーの無駄遣いでしかないのだ。日本人のように自ら進んで改善に努めるなんてことはありえない。そんな人達が仕事をしているのだから、当然、接客も雑になるのである。オーストラリアにやってきて長年住んでいる移民や長期滞在者たちも、彼らのこうした労働観に浸り、次第に溶けこんでいくのだろう。

・・・と、オーストラリア社会の労働観を悪く書いたが、別にオーストラリア社会を貶して自国の素晴らしさを説くのがこの記事の目的ではない。言いたいことはむしろ真逆だ。個人的には、このオーストラリアのテキトーな接客は嫌いではない。というよりも、「日本もこんな感じだったらいいのに・・・」と思うぐらいだ。

というのも、既に説明した通り、オーストラリアで働くほとんどの人が仕事はどうでもいいと思っているので、客も大して店員に期待していないからだ。日本のように店員が気を利かせるのを黙って期待するのではなく、何か特別な配慮がほしい場合、自分からガンガン店員に頼んでくる客が多い。恐らく、「安かろう悪かろう」の観念が接客に対して広く一般に共有されているからではないか。上に挙げた雑な接客例も、高級レストランであれば起こることは絶対に無いだろう。

一方で、日本ではファーストフードからファミレス、居酒屋に至るどこに行ってもある程度質の高い接客が受けられる。標準的な接客レベルが高い。これが逆に、些細なことでもクレームをつけたり、無茶な要求をしてくる悪質な客を生み出す原因になっているのではないだろうか、と思う。「質の高いサービスが受けたければそれに見合った対価を支払わなければいけない」という消費者意識が日本人には希薄であるような気がする。

消費者にとって、どこに行ってもそれなりにレベルの高い接客が受けられる日本はありがたく、素晴らしい環境だ。しかし逆に、サービス提供者側の立場になり実際に自分が接客をしてみると、「なんでこんなことでいちいち文句を言ってくるんだよ・・・」、「何だこいつの要求は・・・!」と、横柄とも言える客の態度にうんざりさせられることは誰にもあるはずだ。こうした客の多くは無意識的に「お客様は神様」という考えに基づいて動いている。このような客が生まれ増長する原因には二つあるのではないか。

一つは、消費者を大事にするあまり積極的姿勢を超えて滅私奉公になりがちな日本人的サービス。消費者に要求する対価に対してサービス過剰であることが多いということだ。

そしてもう一つが、「客とのトラブルを生みたくない」という消極的な接客姿勢。こちらから積極的にあらゆる気を配り客の不自由の排除に努める一方で、トラブルを恐れるあまり客の横暴な要求にさえもハイハイと返答し、無理をしてでも応えようとする。

日本人(あるいは日本企業)のこの二つの労働観が「お客様は神様です」の上にあぐらをかいた悪質な客を生み出す根本原因であり、「サービス(接客)に対する対価」という概念が日本の消費者に浸透しにくい原因になっている。結果、「お客様は神様です」の概念が消費者側に内面化し、「俺達は神様なんだ」と思わせてしまうことになるのである。ファーストフード店に高級レストラン並のサービスを求めるのはおかしいとは思わないだろうか?多くの日本人はそう思わないのである。多くの人々は「払った金額」が受けられるサービスの質を決めるのではなく、「金を払ったかどうか」だけが最高のサービスを受ける権利を決定すると思っているのである。そうした客の要求に対してノーと言えない日本人は、結果自らの首を締めることになるのである。目に見えない「サービス(接客)」に対しても「安かろう悪かろう」の概念が消費者一般に浸透するようになれば、サービス提供者側の肉体的、精神的、そして時間的負担は大きく改善されるのではないだろうか。そのようなことを、マクドナルドで貰ったあのびしょ濡れのカップと店員の笑顔を見ながら考えさせられたのである。

・・・もうね、オーストラリア人の怠け者っぷりにはビビりますよ。東海岸のクイーンズランド州なんてね、日曜日と祝日は時給2倍って法律で定められてるんですよ。3回ぐらい日曜日に働いたことがあるけど、時給4千円超でしたよその時は。「本来休むべきである日曜祝日に働かせるのだから、これぐらい貰う(支払う)のが当然だ」という考えがあるわけです。これだけでもどれだけみんなが仕事したくないかがわかるはず。普段も、勤務時間が終わったら疾風のごとく消えます。日本人みたいにダラダラ残ったりしません。

でも、繰り返しになるけど、これはあくまで日本人から見たら怠け者に見えるというだけで、俺は決して悪いことだとは思わない。それだけ、彼らは自分の時間を大切に考えているということだからです。仕事よりも自分のプレイベートや友人・家族との時間を重視するのが彼らの人生にとって当たり前だということです。幸せな生き方だとは思いませんか?


もう少し、日本人は手を抜いて仕事をしてもいいんじゃないだろうか。勤勉・真面目は日本人の美徳だけど、今の日本社会では多くの人々が鬱積した不満を抱えながら仕事をしている。テキトーにやる程度が世界的には標準レベルなんじゃないの?と思うのであった。

2013/04/07

日本の漫画・アニメはやはり最強だったの巻

「立ち読み」という文化
オーストラリアに来て4ヶ月目ぐらいのことだっただろうか。日本ではごく当たり前だったある習慣が失われていることに気付いた。それに気付いたのはふらっと本屋に立ち寄った時のことだ。そこで目にしたのは様々な英語小説と一緒に並ぶ日本の漫画の数々だった。英語訳された日本の漫画に真新しさを感じながら気付かされたのは、「そう言えばこっちに来て一度も漫画の立ち読みをしたことが無かったな・・・」ということである。偶然本屋に寄るまで気づかないほど、立ち読みという習慣はいつの間にか無くなっていたのであった。日本で立ち読みをする絶好のスポットと言えばコンビニだが、日本のコンビニと違い、オーストラリアのコンビニには漫画の置かれていないことが当たり前で、そのコンビニもそもそも日本のように気軽に立ち寄れるほどあちらこちらに点在しているわけではなく、市街にでかけなければ目にすることはあまりない。「漫画を読むために本屋に買いに行く」という明確な理由がない限り、漫画に触れる機会が一切無いのである。図書館にも漫画はあるが、新作があるわけではない。これはオーストラリア以外の国でもそうなのかもしれないが、「漫画の立ち読み」という習慣、あるいは文化が存在していないようにすら感じる。本屋では中身が確認できるようになっているため、漫画以外のものも含め確認程度に読むことはできるが、漫画雑誌や単行本を丸々タダで読むような日本的な漫画の立ち読みカルチャーは存在しない。日本人は「コンビニに寄ったついで」「待ち合わせの時間つぶしに」といった「ついで」の機会を通して漫画に触れる時間が圧倒的に多いだろう。
少年漫画だけでなく少女漫画も多く見られた
日本の文庫本と比べるとかなり大きい






手塚治虫は海外でも漫画の神と認識されているようだ







日本の漫画産業の売上低下の原因について語られる際に、コンビニ利用客の立ち読みがやり玉にあげられることが多々ある。立ち読みは間違いなく出版売上の低下の要因の一つだが、立ち読みを一つの文化として捉えた場合、この文化が与える漫画産業あるいはアニメ産業への影響は大きいのではないだろうか。つまり、消費者が立ち読みを通じて日常的に漫画に触れることで、彼らの目が肥え、やがて消費者全体の漫画に対する審美眼が磨かれ、レベルが底上げされるということである。結果として、より幅広い年齢層の読者を生み出す土壌を形成し、それがより優れた漫画家や作品を生み出すきっかけとなり、ひいては「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」、「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」などの作品に見られる「作品名の文章化」や、思い出したくない過去を自虐的に描く「中二病」系作品のような作風といったより細分化されたトレンドを生み出すのではないか―と私は考えるのである。



海外の漫画とアニメ
海外の漫画やアニメに明るくないため説得力に欠けるかもしれないが、本屋に並ぶ日本の漫画と比べてみても、海外の作品はやはり単調で、作風や画風に幅や彩りが見られないように感じる。日本のアニメ史においては、「機動戦士ガンダム」による「正義対正義(悪の不在)」の導入によってストーリー性が大きく変化したとされているが、一方で海外の漫画やアニメ、とりわけアメリカの作品は昔から今も変わらず「絶対正義対絶対悪」の勧善懲悪を貫いたままであり、その例は「スーパーマン」、「X-MEN」、「バットマン」、「ヤング・ジャスティス」などに見られる。これらの作品は原作者による執筆が終了した後も焼き直しの形で別の作家が筆を執り、新たな設定や展開を加えられ掲載が続けられている。その絵柄も、昔からのいわゆる「アメコミ」的なままである。勧善懲悪というわかりやすいストーリーが海外作品の主軸となっているため、子どもをメインターゲットに制作されることが多い。そのため、大人でも漫画を読むことが一般的な日本と異なり、海外では今でも「子どもの娯楽」としての認識が大きく、漫画やアニメを好む大人たちは「ギーク(オタク)」として偏見の目で見られるようである。これは私自身が現在滞在中のオーストラリアで出会った外国人から直接聞いたことでもある。


ヤング・ジャスティス

日本のアニメが海外に輸出される際にも、「子どもに悪影響を及ぼすことのないように」との配慮で表現が規制されることがある。たとえば「ONE PIECE」のサンジは海外ではタバコではなくキャンディーをくわえている。「セーラームーン」の一部は性的表現、同性愛表現とみなされカットされている。

オーストラリア人の友人は興味深い点を指摘してくれた。それは「商業的に成功したアニメであったり、その結果有名になった作品であれば、大人が見ても他人から偏見の眼差しで見られることはない」というものだ。多くの人々の共通認識として、「漫画やアニメは子ども向けであり、大人になってもそれらを楽しんでいる人々はオタクだ」というものがあるが、一方で「商業的に成功したものは人目を憚ることなく楽しめる空気がある」という。その典型的な例がディズニーだという。日本でも、他の一般作品はいわゆる「オタクアニメ」として忌避するが、ディズニー映画には寛容な態度を示す・・・という人は程度の差はあれど存在するだろう。ディズニー以外の作品の例を挙げるなら、「ザ・シンプソンズ」、「キング・オブ・ザ・ヒル」などがあるが、これらの作品をはじめとする米国作品の多くに家族愛といった普遍的メッセージが見られる。このことからも、特にアメリカを中心とする海外の漫画・アニメ産業全体が子どもを主な視聴者として定めていると推察できるのではないだろうか。


厳密には人形アニメに分類されるロシアの「チェブラーシカ」。国によって重視するメッセージは異なってくるだろう。余談だが、ロシアの多くの作品は大人でも怖くなるほどの陰鬱な雰囲気で満ちていて不思議だ。

もちろん、海外にも大人向けとされるアニメはある。上で挙げた作品以外には「サウスパーク」「ファミリーガイ」「フューチュラマ」などがある。日本のアニメと比較して目立つ違いは、海外の大人向けのアニメはブラックユーモアや下品な内容を扱うことが多いという点だ。漫画については定かではないが、同様に大人向けのものは存在するだろう。


インターネットとアニメ
「漫画とは年齢を問わず楽しめる娯楽であり、そこには数限りない作品が存在する」という価値観が当たり前の日本人にとって、日本の漫画やアニメがいかに深みのある優れた文化であるかを客観的に認識するのは難しい。最近になりやっと政府も「クールジャパン」なる語を標榜して海外へのコンテンツ発信に力を入れようと本腰を入れる素振りを見せているが、それ以前から海外の人々はインターネットを通じて日本の漫画やアニメを楽しんできた。インターネット上に違法にアップロードされたアニメには日本語のセリフを理解できるファンが自ら彼らの母国語で字幕をつけ、その他大勢のファンがそれを共有し動画サイト上で視聴している。そして、それぞれの作品について掲示板で感想を熱く語り合っている。

インターネットを通じて高まる日本のアニメ人気はやがて現象的なものとなり、コスプレといった活動に発展する。時折、日本のメディアでも海外の漫画ファンやアニメファンの様子が取り上げられることがあるが、実際に彼らのコスプレを生で目にするとその熱狂ぶりに驚かされる。オーストラリアでは昨年で10周年を迎えた映画・漫画・アニメのファンイベント「スーパーノヴァ」が毎年開催されるが、会場には気合の入ったコスプレに身を包んだ漫画オタク・アニメオタクのオーストラリア人が多く集まる。彼らのコスプレを生で見た私はそのレベルの高さに本当に驚かされた。初音ミクや鏡音リンのコスプレをしているものまでいて、ここまで認知されているのかと衝撃を受けると同時に、日本に住んでいた頃に読んだ外国人の日本産漫画・アニメへの熱狂ぶりを伝える記事は真実だったのだと知るのであった。


漫画とアニメのポテンシャル
こうした状況をインターネットや現実で目撃すると、漫画やアニメは大変大きな潜在力を秘めた文化だと実感させられる。良き漫画や良きアニメは、インターネットを通じて世代を超え再度消費されるに留まらず、時にその枠を超えた波及効果をもたらし、新たなブームを巻き起こす。また作品に流れる思想や表現方法は新しい世代と作品に影響を与える。
イタリアでのファンの間でのマジンガーZ人気は宗教的だという

たとえば、昨年の10月に放送を開始し、二日前に最終話の放送を終えたばかりのTVアニメ「ジョジョの奇妙な冒険」でエンディング曲として起用されたイエスの「ROUNDABOUT」は1971年に発表されたアルバムの収録曲だが、このアニメの放送をきっかけにブームが再燃し、ダウンロード販売サイトでは軒並み売上急増YouTubeでの再生回数も急上昇している。




イエス「Roundabout」、アニメ『ジョジョの奇妙な冒険』効果で売上が20倍に! http://alfalfalfa.com/archives/6265863.html


こうした現象を目の当たりにする瞬間はとても興奮する。

映画「マトリックス」も良い例だ。この映画は過去の多くの映画作品から着想を得たとされているが、「攻殻機動隊」や「AKIRA」の影響も受けていることで有名だ。


漫画やアニメの違法アップロードは許されるものではないが、インターネットの力が無ければここまでの波及効果も起きないだろう。映画や音楽、漫画やアニメといった芸術は娯楽としての側面の強い文化だが、これらが外交戦略上重要であるという指摘も存在する。インターネットを通じて日本の漫画やアニメが視聴でき、それについて共に語り合う仲間が大勢いるということは、単に彼らにとって好ましいだけでなく、我々にも利益をもたらす現象であり、日本のメディアが伝える「他所の国で日本の漫画・アニメが持て囃されている」という事実だけで終わるものではないのである。
こうしたことをぼんやりと考えながら、オーストラリアで海外の動画サイトを利用して英語字幕付きの日本のアニメを鑑賞していると、「日本では当たり前に見られるアニメ」が途端に崇高なものに見え、日本人にとっては一娯楽であるこの文化がここまでの熱狂を生み出していることに興奮を覚える。終いには日本人に生まれたことに誇りさえ抱いてしまうのである。そして何より、プロ・アマ問わず日本のこのコンテンツを外国人が理解可能な言語に訳している字幕翻訳者は大変素晴らしく、誉れのある存在だと認識させられ敬服してしまう。彼らこそ、日本の予防外交に最も貢献している存在ではないだろうか。


日本を離れなければ経験として知ることはなかっただろう。日本の漫画・アニメはやはり最強だった。

2013/03/29

香港人&台湾人の暇つぶし


韓国人の花札を目撃したのはつい数日前なのだが、実はそれよりもっと前、今のホステルに来て二日目ぐらいに目撃したのが彼らの麻雀だったwまさかオーストラリアで麻雀牌を見るなんて・・・と最初はビビった。花札以上にビビったwていうかお前らどこで一式ゲットしたんだよ・・・まさかわざわざ自分の国から持ってきたのか?と聞いてみたらパースで$80(¥8,000ぐらい)で購入したそう。結構な金額だと思うんだけどw

麻雀を知ったのは小学校高学年の頃に読み始めた「勝負師伝説 哲也」だったのだが、この漫画のせいで麻雀はイカサマをするのが普通のゲームだと長いこと思っていたwこの漫画を読んで知っている程度だから、役や牌の名前その他(ポン・チー・カン)を単語として知っているだけで、具体的なルールは全く知らない。楽しいゲームなのは間違いないはずだから、ルールを覚えて挑戦してみたいのだけど・・・。麻雀をやる友人は周囲に全くいなかったために覚えるきっかけが全く無かった。おかげで韓国式花札の時と違って、彼らの麻雀を眺めていても日本のルールとどんな違いがあるのか皆目見当がつかない。うーん残念。本気出せばネットゲームで勉強できそうではあるけどw

囲碁・将棋もそうだけど、頭を使う卓上ゲームは判断能力を磨く良い訓練になるだろうな~。大局観と呼ばれるこの直感的思考能力は人生に役立つといっても過言ではないはず。


楽しそうだなーいいなー。ルールを覚えていつか鷲巣麻雀をやるのが俺の夢の一つw

そう言えば、沖縄にはツバメ返しができる凄腕の雀士がいるので紹介しておく。

韓国人の暇つぶし

ある日の夜、韓国人たちがある遊びに興じているのを発見した。それを見た俺は驚いた!
なんと花札をしていたのである。「韓国人も花札を知ってるのか!」と尋ねると、これまたびっくり、「花札は日本のゲームで、韓国に輸入されてるんだよ」とのこと。知らなかった・・・!!話を聞いてみると、韓国の若者はほとんどルールを知っていて、誰でもできるらしい。花札が出来る若者は日本にはあまりいないんじゃないか・・・?
俺が花札を覚えたのも、子どもの頃に毎年正月に母親にいやいや引きずられるようにしてやんばる(沖縄中北部)にある瀬底島の祖母の家を訪ねたせいだった。島内には個人経営の売店が2店舗と小学校があるだけで、娯楽は何もなく、更にその島は本島と橋で繋がった集落であるため、子どもの頃の俺にはまさに監獄のような場所で、死ぬほど退屈であった。

退屈なのは子どもだけではなかったようで、帰省中の親族みんなで花札をやるのが習慣のようになっていた。徹マンならぬ徹ハナで早朝までやることもしょっちゅうで、祖父の通夜の際にも棺の横で花札をやっていたのをよく覚えている。
最初は俺も見ていただけだったのだが、門前の小僧習わぬ経を読む、で自然と覚えてしまった。といっても2人用のこいこいよりもっと単純な花合わせの亜流の用なルールを一回4人でやっていた。

韓国人たちの花札のやり方を観察してみると、ルールはこいこいに似た「ゴーストップ(Go Stop)」というルールが主流のようで、上がりに必要な役を揃えた際にこいこいするかしないかをGoまたはStopで宣言する。ただし、ジョーカーやボーナスカードと呼ばれる特殊なカードがあったり、自分の札と場の札を合わせた後で山札から同じ種類の札を引いてしまった場合は自分の札として獲得することはできず、場に3枚1組として置かなければならない、などよりゲーム性の高いルールになっている印象。

韓国の花札は短札の「みよしの」「あかよろし」がハングルになっていたり、20点札全てに「光」の文字が入っていたりと、日本の花札と微妙に絵柄が違っていて面白い。

韓国式花札を覚えて彼らと勝負してみたいと思ったので軽く教えてもらった。ルールはそこまで難しくはないものの、役作りの戦略の立て方が違っているため慣れるのに時間がかかりそうだ。「iPhoneのアプリがあるからそれで勉強しなよ!」と教えてもらったので、目下勉強中である笑


こういう些細な発見と驚きも旅の醍醐味なのかもしれんな。こんな形の交流も面白い。

2013/02/24

パースの写真いろいろ

先月23日にブリスベンからパースに移動した。飛行機で5時間もかけてオーストラリアの西端に移動したわけだけど、予想していた以上に都会で驚いた。あと、ブリスベンにいた時は色んな人からパースは物価が高いと言われたのだけど、想像してたよりは高くなかったな~。ほとんど外食してないからそう感じるのかもしれないけど。

州が変わると色々変化があるのね、ということで個人的に面白いと思ったパースの写真を貼っていきます。

パースに降り立っていきなり驚かされたのがこのバス。こんな風に運転席が完全に保護されたバスはブリスベンでは一度も見たことがなかった。けど全部のバスがこんな風に完全防御されているわけではなく、市街地で走っているバスにもフェンス付きのものとそうでないものがあった。テロ対策にしてはテキトーな気が。よくわからんw

夢がひろがりんぐなマネーストリート。金持ちになりてー。

タカヒロが「ハリーポッターみたいな道」と小学生並みの感想を漏らしたオシャレな通路。両サイドには葉巻屋さんやチョコレート屋さんなど一流感溢れるお店がずらっと軒を連ねていた。パース市街はまぁブリスベンと変わらない町並みなのだけど、アーケードに面したこの通路だけはイギリスちっくで、「トンネルを抜けるとそこは・・・」の次に雪国ではなく、千と千尋の神隠しを頭に浮かべた俺も小学生並みの感覚しか持ちあわせていなかったのであった。


ブリスベンはカフェやファーストフードがいたるところにあり、その多くが無線環境を整えているため街に出ればネットの閲覧には困らなかったのだが、パースはそういった場所が限られていて苦労した。幸いにも図書館がWiFiを提供していたため利用しようとしたのだが、そのスピードの遅さに唖然。これって無いほうがマシなんじゃないか・・・?1ページ読み込むのに1日かかるレベルw 街中のカフェなどの無線はここまで遅いことはないのだろうけど、ブリスベンよりはタダで使える無線環境(野良WiFi)が少ない印象。探すのに苦労した。


ちなみにその図書館のロッカー利用に関する看板↓
荷物が安全な場所に保管されているという安心感―プライスレス。言うことはキザ。

ブリスベンの注意書き
パースの注意書き
ブリスベンの表示と微妙に違うパースの歩行者用信号機の注意書き。緑の男がパースでは右向きになっているwあと気のせいか細身になってる・・・。ちなみにどこに行っても赤点滅時は超サイヤ人化するようだ。

やっつけ仕事感満載のエレベーター。表示が壁に埋まってます。これがオージークオリティーなのか。

あと変なダンサーもいました。
このヤル気の中途半端さにはアボリジニも反応せざるを得ない。

2月10日は旧正月ということでパースでもお祭りが開かれていた。美味しそうな屋台やゲームが沢山あるのだが・・・これは誰がやるんだ?wしかも一秒ごとに全てのピエロが同時に左右に首振りします。子どものトラウマになること必至。

それから、オーストラリアに来てからというもの観光らしい観光は全くしてこなかったのだけど、この前はパースから電車で40分ほどのフリーマントルという港町に行ってきた。お洒落で落ち着いた町だったし、また行きたいわん。以下フリーマントルの写真。

インド洋だよインド洋!ちょっと感動wしかし海は俺的には普通だった。


お洒落。メルボルンもこんな感じなのかな~と想像。

mixiの昔のログインページみたいな高台に来たので必死にこのアングルで撮影。

この日の同行者たち。たかひろの語学学校のクラスメイト。俺様完全にアウェーだったのでバンキシャも真っ青のローアングルからいやらしく撮影。


少しずつ日焼けしてきた。




とりあえずパースで面白いと思ったのはこれぐらいかな。




ていうか俺写真撮るのうまくないか!?w

ShareThis