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2013/08/18

俺たちのジャッキー・チェンは嫌われ者だった

日本男児なら誰もが好きな(だよね?)ジャッキー・チェン。オーストラリアに滞在していると、初対面の香港人や台湾人から「日本のアニメ好きだぜ!◯◯面白いよね~」と言ってもらうことがよくあるのだが、それと同じノリで俺もジャッキー・チェンの話をすることがある。2年ほど前には関東と関西でジャッキー・チェンの主演100作品突破記念とキャリア50年を記念した「大成龍祭」というイベントが開催され、六本木のTOHOシネマズでは約3ヶ月の期間に渡って、毎週日曜に過去のジャッキー作品を1000円というお手頃な値段で上映していた。ジャッキー映画といえば、子供の頃に日曜洋画劇場で「ポリス・ストーリー」や「シティハンター」を見たのを覚えているが、このイベントで鑑賞した殆どの作品、たとえば「ヤング・マスター」や「サンダーアーム」といった名作や、特に「笑拳」をはじめとする「拳」シリーズのほとんどの作品は見たことがなかった。中には当時日本では公開されなかった作品もあり、本邦初公開として上映された。昔からのジャッキーファンにとっても良いイベントだったと思う。俺はジャッキー好きの友人と毎週足を運んだのだが、日曜日の19時上映開始という遅めの時間にもかかわらず、毎回そこそこの集客数だった。

最近だと、キリンビール「のどごし生」の一般人の夢を叶えるCM企画にオーディションで選ばれたサラリーマン男性がジャッキー・チェンとのCM出演を果たし、そのCMとメイキング映像が感動的だと大きな話題になった。





多くの日本人(特に男性)にとってジャッキー・チェンはやっぱりレジェンド的存在なので、こっちで出会う香港人や台湾人に「俺はジャッキーが好きだぜ!」と相手の文化の偉人を褒めてあげるようにしているのだが、どういうわけかジャッキー・チェンが好きだという香港人や台湾人に出会ったことが一度もない。この話をした人はみんなジャッキーが嫌いだという。

ジャッキー・チェンは昔は人気があったそうだが、今は嫌われているらしい。なんでも、妻子がいるにもかかわらず色んな女性と浮気をし、その度にセックススキャンダルが発覚するからだという。
そこで、「個人としてのジャッキー・チェンのふるまいは確かに良くないかもしれないけど、それでもアクションスターとしてのジャッキーはレジェンド的存在でしょ?それでも嫌いなの?」と尋ねてみるが、それでも「うーん・・・やっぱり嫌い。」とみんな苦い顔をするのである。解せないなぁ~と思うのだが、その辺りはやはり家族を大事にする中華系民族的価値観の表れなのかな?と考えることにしていたのだが、先日やっとジャッキーが嫌われている本当の理由がわかった。

How Jackie Chan Became The Most Hated Celeb On The Chinese Internet
http://www.buzzfeed.com/kevintang/jackie-chan-offends-chinese-netizen

要は政治的理由だったのである。この記事を読むとよくわかるが、どうやら中国本土では、ジャッキー・チェンは「五毛(英語では"five pence")」と呼ばれているようだ。五毛とはお金のことだが、一般人を装い、政府や自治体からお金を貰ってインターネット上で政府を擁護・賞賛したりプロパガンダを広める意図の書き込みを行う人を指すようで、その報酬が一件五毛(10毛=1元=0.5元)であることに由来しているそうだ。中国政府の情報統制の一つで、ネット評論員、世論誘導員とも呼ばれているとのこと。

五毛については、このあたりが詳しい。

五毛ーー中国ネット上の不思議な政府の飼い犬
http://blog.livedoor.jp/alexwangyang/archives/51656516.html

ネット用語から読み解く中国(11)「五毛党」(続)
http://www.toho-shoten.co.jp/chinanet/cn201106.html

記事によると、ジャッキー・チェンは故郷の香港について、「今やデモだらけの街と化した」と発言したり、中国本土については「自由を許しすぎると香港や台湾のような酷い有様になってしまう。中国市民は統制下に置かれるべきだ」と発言しているようだ。こんなこと連発してたらそりゃまぁ嫌われるよなぁ・・・wこの記事を読んで日本でもたまーに(本当にたまに)ジャッキーの日本に関する政治的発言が話題になるのを思い出した。
・・・確かに、わざわざ自分のイメージが悪くなるようなことを国外(日本)にジャッキー自ら広めるわけないよなぁ。だから、ジャッキー・チェンは日本ではいつまでもカッコイイ、レジェンドのままなのだ。

それにしてもやはり、中国という国(そしてその文化圏)は非常に面白い。こんなことを言うと現地の人々の反感を買うかもしれないが、こうした事実を客観的な現象として傍観するのは非常に興味深い。

ネット用語から読み解く中国(11)「五毛党」(続)では中国のある芸術家が実際に五毛党として活動している男性に行ったインタビューの日本語訳を掲載しているが、その内容は示唆に富んでいる。

問:典型的な“世論誘導”のプロセスを教えてほしい。

答:典型的なものはない。あまりにも数が多いから。例を挙れば、例えばガソリン値上げで、次のような通知を受ける。「ネットユーザーの感情を落ち着かせ、大衆の注意力を転移させよ」などだ。翌日ニュースが出れば、ネットでは国や石油会社を罵る書き込みばかりだろう。そこで我々が登場する。石油や不動産の値上げに対しては、我々は焦点を曖昧にし、人々の注意力を転移させる。
成功した例を紹介しよう。人々が値上げに対して政府や石油会社を罵っている時、私はあるIDで「どんどん値上がりすればいいじゃないか。どうでもいい、どうせあなたたち貧乏人は車なんて乗れないんだ。これで、道路は金持ちだけのものになる」などと書き込んだ。ネットユーザーを怒らせるのが目的だ。大衆の石油価格への怒りが自分に向かうようにした。これは本当に効果があった。自分もIDを変えて自分を罵り、多くの人が注目するようになり、自分を攻撃する人がどんどん増えた。こうして徐々にニュースコメントのページが自分の発言で埋め尽くされるようになり、人々が論ずる内容が石油価格から自分の発言へと変化、こうして目的を達したのだ。

問:ほかのやり方は?

答:いろいろなやり方がある。言うなれば人の心理を弄ぶ感じだ。現在のネット市民は、以前と比べて思想的にも進歩している。以前は何が起きても、マイナスの情報は伝わるのが早く、人々は信じていたが、現在はこれはヤラセではないか、と疑うような人が多くなった。

問:この仕事は中国の世論誘導にどの程度の役割を果たしているか?

答:役割は小さくないと思う。正直なところ、中国の大部分のネット市民は馬鹿だ。誘導してやらないとデマを信じるようになる。今回の塩事件がいい例だ。

中国のメディア関係者と交流する際、しばしば彼らが口にだすのは、「日本のメディアはなぜ、世論をあおるだけで、もっと世論を正しい方向に導こうとしないのか」ということだ。民衆は導かれるべきものであり、メディアはその手段なのだ、という意識が中国のメディア関係者には根強く残っているようだ。ネット評論員=五毛党もいわばその延長線上にあり、それゆえ、前述のような発言が出てくるのだろう。

世論に良い悪いがあるのかという疑問は別として、五毛党による世論誘導には、経済や社会の混乱を防ぎ安定を保つという、政府の直接的な利害を抜きにした狙いもあるというのが興味深い。その意味では、世論の誘導には「功罪」と呼ぶべき側面があるのかもしれない。

日本でも、数年前にステルスマーケティング(通称ステマ)と呼ばれるマーケティング手法が悪質だとして話題になった。レストランや出会い系サイト、オークションサイトなどの経営者が金を支払い、レストラン評価サイトやブログなどで一般利用客を装って都合の良い感想コメントを書いてもらい、それを読んだ人が利用したくなるように仕向けるというものだ。それが政治に関連した内容かどうかというだけの違いでしかないという見方をすれば、日本にも中国の五毛党と同種の人間が多く存在すると言えるだろう。しかも、日本の場合は、五毛党のように政府による中央集権的な誘導ではなく、個々の一般企業が分散的にこうしたマーケティングを行っているため、五毛党による書き込み以上に見ぬくのが難しいと言える。インタビューの中で、五毛党は「中国の大部分のネット市民は馬鹿だ」と発言しているが、日本人がそれと同種のステマを見抜けているかどうかは非常に怪しい。実際、「利用する人たちは情報源を確認せずにデマを信じて拡散する馬鹿の集まりだ」という意味合いで、ツイッターを「バカッター」と揶揄する人たちがいる。五毛という中国特有の現象から我々が学べることがあるだろう。


それにしても、ジャッキー・チェンは本当に五毛党なのだろうか。上に挙げた記事ではそれは言及されていないが・・・。

中国では嫌われ者かもしれないけど、それでも俺は好きだよ、ジャッキー!

2013/08/11

世の中才能で溢れてるんだなぁ

昨晩、かなり久しぶりにYouTubeで動画を漁ってみた。
動画自体は他愛もない、暇つぶし程度に見るような面白動画だったのだけど、見ているうちに「世の中には素晴らしい才能を持った人がこんなに沢山いるんだなぁ」と、謎の感動を味わってしまった。
とりあえず面白かった動画を紹介しよう。


FUNNY GAMING MONTAGE

ニコ動にもよくあるゲーム実況。動画中ではFワードなど汚い言葉がバンバン出てくるのだけど、実際ゲームをやってる時ってこんな感じだよなぁと思いながら見てると意外と勉強になる。とにかく笑える。

Steve Jobs vs Bill Gates. Epic Rap Battles of History Season 2.

スティーヴ・ジョブスとビルゲイツのラップバトル。歴史上の人物をラップで闘わせるという面白いアイディア。他にもダース・ベイダー対ヒトラーなど。

YouTubers React to Japanese Commercials (Ep #9)

日本のTVコマーシャルを見た外国人の反応。こうして見ると日本のCMがいかに変かってことがよくわかる。

Teen Speaks 20 Languages

17歳にして20の言語を喋る少年の動画。これにはかなり刺激を受けた。

90 Degrees Room Prank

弟の部屋を90度回転させるイタズラ。

こういう動画を見ていると、よくこんなアイディアを思いつくなぁと驚かされる。世の中には自分には想像もつかないような面白いことをやっている人が沢山いるんだと妙に感動してしまった。この世界は才能に満ちているんだなぁ。

音楽や絵画のような、特に何かしらの創作活動に携わる人たちに対して思うのだけど、頭のなかにある目に見えないアイディアをこういう風に具現化できるのは本当にすごいと思う。まず行動力が凄い。俺なんて「はらへったなー→ご飯作らないと・・・」の時点で我慢する方を選ぶのにw 芸術的センスが皆無な上に手先が不器用だから、絵を描いたり楽器を弾ける人はそれだけで尊敬しちゃう。

そしてもう一つ凄いと思うのは、インターネットのおかげでこうしたすごい人たちに簡単に出会えるということ。書籍「FREE」に「物が溢れている時代だからこそ、それを贅沢に無駄遣いすることでそこから新たな価値を創造することができる」みたいなことが書いてあったけど、これは本当にそうだと思う。YouTubeみたいにガンガン動画をアップロード(しかもタダで)できるようなサイトが無ければ、個人の才能や天分が人々の目に留まったり、それが相乗効果を生み出すようなことは無かったはず。

他に海外の面白い動画があったら教えて下さいw

2013/08/05

「文章を『書ける人』と『書けない人』のちがい」という記事を読んで

数日前に読んだ、「文章を『書ける人』と『書けない人』のちがい」という記事。なかなか面白い記事で、共感する部分が多かった。Facebookにリンクを貼ったのだけれど、他の多くの方にとっても面白い内容だったみたいだ。自分のブログ記事の書き方について思い返しながらこの記事を読み進めたのだけど、記事中には、特に今まで意識していなかったけれど、言われてみれば確かにそうだと納得する部分があった。
特に、この部分。
文章を書くという仕事は、ゼロを1にする作業だと思われがちだ。

小説や脚本、ゲームシナリオなどの創造的な文章ならばなおさらだ。しかし実際には、文章を書くというのは100を1にする作業だ。文章を書けるかどうかは、このことに気づけるかどうかだと思う。作家にせよ、ジャーナリストにせよ、それこそアルファブロガーに至るまで、きちんとした文章を書ける人はみんなこのことに気づいている。

よく思い出すと、小学校の頃によく書かされた読書感想文は、まさにゼロを1にする作業だったなーと思う。小学生なんて大した知識も人生経験も持っていなければ、論理的思考能力も無いに等しいわけだから、読んだ本の内容と自分の頭のなかにある知識や思索を関連付けて文章を書くことなんてできっこなかった。確か、原稿用紙4枚以上の分量を毎回書かされたと思うのだけど、800字詰めなら3,200文字、400字詰めでも1,600文字もある。それを何の武器も無しに書かなきゃいけなかったから、かなりキツかった。ひーひー言いながらやってた。段々とセコい真似をするようになって、全ての文章を「~だ。」のような形ではなく、「~でした。」、「~と思いました。」のようにわざと引き伸ばして書いたりして、1文字単位で字数を稼ぐことに苦心していたのをよく覚えている。行の最初の方のマス目で文章を終えて、次の行から字下げで新しい段落を始めて「一行分稼いだぜラッキー」みたいな。かなり苦痛だったからよく覚えてる。

でも今は、文章を書くことに対して全くそんな風に感じていない。字数のノルマが無いから当然なんだけど、普段から雑多な記事や動画や消費していて、それ以外にも考え事をすることがあるから、自然と文章を書くための材料がストックされていると思う。何かブログの記事のネタを閃いた時は、そうした過去のインプットの中から、どれを使えば自分の論理をうまく補強して、より説得力のある記事に仕上げることができるか・・・と考えることができる。そういった材料が無くても、今はググることもできるしね。そういう意味では、2ちゃんのまとめとか、どうでもいい動画とか、時間の無駄にしか思えないようなものでも役に立っているのかもしれない。そういう普段のインプットのおかげか、殆どの場合、出来上がった記事の分量は執筆前の予想より多い。質が良いかは別として。頭に浮かんだことをひたすら書いていたらかなりのボリュームになっていて(しかも脱線してたり)、あとから文章を削除したりすることもある。お喋りな性格だな~と書きながら思うことがよくある。
文章屋が仕事をしてるのは、キーボードを叩いてる時だけではない。
まず情報を集める段階がある。つぎに、集めた情報を組み合わせたり取捨選択したり……知識と格闘する段階がある。それから、情報をどのような順序で見せるか、文章の配列を決める段階があって、さらに文章の枝葉まである程度固めて……そこでようやく、キーボードに向かうことができる。文章屋がペンを握ったときには、もう作業の8割がたは終わっている。実際にキーボードを叩くのは、「文章を書く」という工程全体の5%ほどだ。

今の時代、特にツイッター登場以降、主にネットでの情報発信はほとんどがキュレーションで成り立っていると思う。キュレーションというのは、元々は画廊があるテーマで美術展を開くにあたって、存在する多くの作品の中からテーマに合ったものを選別して、全体が一つのメッセージ性を持った価値を生み出すようにそれらを効果的な順番で並べることを指す。今のネットの文脈で言えば、情報の収集・整理・再構築による新たな情報価値の創造。自分自身のブログの記事の書き方を振り返ってみても、これに沿っている。まず自分の言いたいことがあって、それを支えるためにアレコレの中からどれを引用しよう、どれと関連付けよう、どういう順番で表示しよう、これは必要あるかないか、蛇足にならないか、等々。やっぱり「100を1にする作業」だと思う。例えて言うなら、日本酒の酒造所が米の表面を削って吟醸や大吟醸にしたり、精肉加工場が皮をはいで身の部分だけにしたり、魚屋が魚をさばいて余計なものを切り取ったりするような。

自分のブログを振り返ってみても、執筆後の自己満足度が高かった記事や、特に気合を入れて真面目に書いた記事の殆どが、執筆前に8割型完成している。文章自体はパソコンに向かうまで一行も書かないのだけど、マインドマップを使って書きたい内容を整理した上で臨むから、いざキーボードを叩き始めると割とスラスラと文章が浮かんでくる。このやり方で書く場合は、パソコンに向かう前の時点で既に、あの動画は記事中のどこに挿入しよう、この画像はどこに貼ろう、と細部のデザインを考えていることが多い。


「日本の漫画・アニメはやはり最強だったの巻」のマインドマップ。振ってある番号は起承転結の順番。実際に文章を書き始める前の段階でここまで仕上がっていた。

物書きに限らず、絵画や音楽など、何かの分野で創作活動をする際の、アウトプットをする直前の人々の頭の中や情報整理の物理的な方法が可視化されたら面白いだろうな~と思う。どんな風に物を考えたり、どんな風に情報を整理したらこんな作品が生まれるんだろう、というのを知れたら楽しんじゃないかな。村上龍の取材ノートとか面白そうだし。俺の場合はこんな感じ、ということで、マインドマップを晒してみた。物書きにマインドマップを使うやり方って結構特殊な気がするんだけど(聞いたことがない)、どうなんでしょう。

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