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2012/11/11

バイト先の同僚のグチを聞いて学んだこと

今は某レストランで働いているのだけど、先日、バイト上がりに先輩と一緒にカフェに行って先輩の漏らすバイトのグチをたっぷり聞いてきた。・・・と、こういう風に書くと、タイトルを見て「あーグチ聞くのつらかったー」とか、「グチを言うのは良くない」みたいな展開を想像するかもしれないけど、そうではない。むしろ彼女の話を聞くのは凄く面白かった。これは彼女がこの記事を見るかもしれないから保険のために楽しかったと書いているわけではなく、本当に面白かった。興味深かったというべきかな。恐らくグチを語った彼女自身は、「あかし君にグチを語り尽くした」みたいに、もしかしたら申し訳なくすら思っているかもしれないけど、俺としては、他に誰もいなかった店内に何時の間にかお客さんが溢れているのにも気づかなかったほど楽しい時間だった。そして、この時間を振り返ってみると多くの学びに満ちていることに気づいたため、こうして記事に残しておくことにした。念のため、これから記す内容について彼女をディスる意図は一切ない。むしろ彼女はとても魅力的な人で、バイト中にはいつも助けられてます。

1. 誠実に生きることの大切さ
この日カフェで彼女のグチを聞くことになったきっかけは、バイト中に彼女がイラっとさせられたあるちょっとした対立だった。些細なコミュニケーションの食い違いで別の同僚との小さな対立が生まれ、そのおかげで彼女はイライラしてしまい、彼女と同時に勤務が終わった俺にその時の様子をグチとして語り始めたのだった。彼女は対立したその人物について、カフェに着く前から日頃気になっていたアレコレを個人的エピソードと共につらつらと勢いよく語っていったのだけど、その話を聞いて、俺自身が抱いていたその人物に対する印象と彼女のそれとで、真逆に近いほど違っていることに驚かされた。既に想像出来るとおり、彼女のその人物に対する印象(≒評価)は、日頃から溜まっていた鬱憤もありあまり良いものとは言えない。かたや俺が抱いていた印象というものは、よく冗談を言う気さくで接しやすい人物、というものだった。数年働いていて職場の面々についてよく知っている彼女が語る件の人物像というものは、このバイト先に入ってまだニ、三ヶ月足らずの自分にはとても具体的で、自分の知らなかった二面性を覗かせてくれる意外性に満ちたものばかりで、自分の抱いていた印象とのギャップを楽しむかのように、「へ~!」と、感心に近い嘆声が終始止まらなかった。

彼女の話に耳を傾けながら、この感覚は会社員時代にも味わったことがあるな、と思い出していた。ある役員の評価について、ある課の社員たちは「Aさんは凄い。あの人はいざという時はキチッと責任を取ってくれる。役職付きはこうでなくちゃ。」と口を揃えていたのだが、別の課の飲み会に参加してみると、「あの人はダメだよ、責任丸投げ。」と、まるで逆のことを聞かされ、ひどく驚いた。同じ一人の人間でしかも会社という同じ組織の中にもかかわらず、相手によってこうも評価が変わるものなのか、これじゃあまるで別人の話じゃないかと耳を疑うほどだった。人の評価は評価者によってマイナス100からプラス100まで変わってしまうのだということを肌で感じ、彼女のグチの内容は会社員時代に得たその教訓を思い出させてくれた。

言い換えればつまり、俺の発言や行動も、人によってプラスに評価されることもあれば、マイナスに評価されることも当然ある―いや、既にその二つのジャッジを常に同時に下され続けているだろう、ということを彼女の話に気づかされた(当たり前ではあるけど)。その状況で大切なのは、自分自身、あるいは周囲の存在、もしくは組織や社会全体にとって良いことは何かを常に考え、変に媚びへつらったり何かをてらったりすることなく誠実な態度を見せることだろうなんだろうなと感じた。人によって評価の基準は異なる。プラスに評価してくれる人がいるということは、マイナスに評価する人も当然いる。自分を取り囲む周囲の人数が多ければ多いほど、全員にプラスの評価を下してもらうことは難しくなる。そのような状況で打つ芝居や虚飾の言葉は一瞬でバレてしまい、信用を大きく失う。ならば、たとえ自分の言動が一部の人の反感を買うことがわかっていたとしても、自分が正しいと思う限り、誠実に、正直に伝え振舞うことが大事なんだろうな、と考えさせられた。

常に誠実に生きることは難しいだろう。組織や社会のしがらみでの中で生きていれば、時には日和見的に振舞ったり、八方美人や面従後言でいる方が良い場合もあるかもしれない。それに、人間の悲しい性か、常に聖人君子然としている人は逆にどこか嘘くさく、人間的魅力に欠けて見えてしまうことも少なくない(だからこそグチを吐く彼女という存在について、俺は魅力的な人間だと感じているのだろう)。所詮は綺麗事かもしれない。しかしまぁ、そんな小難しいことは抜きにして、誠実に生き、そして周囲から誠実な人間だと思われたいなぁ、ということを耳を傾けながら思った。

2. 昔に比べて大人になった
こんなことを言うとキザっぽく聞こえるかもしれないけど、彼女のグチを2時間聞いた自分をハタと振り返ってみると、昔・・・特に大学時代の自分と比べると随分大人になったなぁと思う。昔は人のグチを聞くなんて行為は究極の時間の無駄としか思ってなかった。当時の自分なら、グチの止まらない彼女をコーヒーへと誘ったりなんて絶対してないだろうなぁと思う。昔と違って、今は何というか、自分とは無縁の世界にももっと興味を持つようになったというか、自分との接点の見えない他者やその人の話にも興味を持つ精神的余裕を持てるようになったと思う。大学時代や会社員時代の頃は、興味に自覚的な人や話題にしかコミットしなかった。自分が好きか嫌いか、興味があるか無いか、あるいはメリットがあるかどうかなど、損得を考えた人(モノ)付き合いしかできない節があった。だから、仕事が終わった後などの友達からの急な「今から会えない?」とかの連絡も、ホントは家に帰っても何もする予定がないにもかかわらず、「あー今日は忙しいから無理だわごめん」とか嘘ついたり。ある意味正しい選択でもあるのだけどね、場合によっては。今は、一見無駄に見えることに対する時間の投資にいくらか重きをおくようになった。以前よりセレンディピティー(思わぬ収穫)をいくらか重視するようになったというか、「期待はしないけど結果的になんかあったらラッキーだな(・∀・)」という視点で外の世界と関わりを持つ余裕が生まれるようになった。無機質で高尚な言い方をすると、ボランティア精神に芽生えたというかwこんな書き方をすると誤解されそうだけど、他人の話を聞くことが無駄だと思っているわけではないです。かつてはそう思っていたけど、今は利の見えないことでも楽しもうと思えるになった、という話です。

こういう風に自分の振る舞いや思考の変化を見つめ直すと、ある程度、こんな自分でもそれなりに成長したんだろうなぁと思う。でも、俺の中でなんとなく、「成長すること=大人になること=老けること」っていう変なイメージがあって、「年を重ねて肉体が衰えてもいつまでも童心を忘れずにいたい」と願う逆コナン志望の自分としては、自分のこの成長はとてつもな~く激しい精神的老化現象のような気がして、素直に喜べなかったりする。だから、どっちかというと「昔に比べて成長したなぁ。」というよりも、「昔に比べて老けたなぁ俺も・・・。」みたいな諦観たっぷりの捉え方の方が大きい。実際、実年齢より年上に見られることが多いしね。「なんだか落ち着いてるね」と言われることはよくあるし(会社員時代にも、今のバイト先でも言われた)、この前なんて、バイト先の上司に連れられて行った夜のカラオケでは、パスポートを見せた入り口の店員に「お前ホントに25か?」と驚かれた。「そんなに老けて見えるのかよ!?」とツッコんだら、「いや横にいるツレ(40代)が若く見えるんだよふがふが」と必死に弁明しておりました。
実際のところ、こういう思考が雰囲気に滲み出ていて、それが老けた印象を与えてるのかも・・・という予想もできるんだけど、でも、ここや以前のブログで述べてきた諸々の考えは、一応ハタチを超えた大人なんだし、周りの友人や同世代の人々も持ってるごくフツーの思考のはずで、決して達観したものではないはず。・・・じゃあ何で俺だけ老けて見えるんだよ?とまた振り出しに戻る。自分という人間を理解することは難しいですね。・・・白髪が多いからか?w

3. グチ話がグチ話で終わるかは聞き手次第なのかも
「嫌なことがあったから友達にグチを聞いてもらってガス抜きをする」という行為は、「聞き手は我慢して相手の話に耳を傾け、ストレスを相手から吸収する」という助け合いのカウンセリングのようなコミュニケーションだと思う。実際、何人もの患者の悩み相談を受けるプロのカウンセラーはストレスを溜めやすく、心の健康を崩しやすいそうだ。けど、最初に書いたとおり、彼女のグチ話を聞いたあの二時間は楽しく、むしろグチ話を聞かされたという感覚すらない。もしかしたら、グチ話がグチ話に終わるかは聞き手のコミュニケーション能力次第なのかも、と思った。

以前はグチを聞くのは究極の時間の無駄だと思っていた―ということを上に書いたけど、その若かりし時代(笑)には、男性と女性のコミュニケーションは全く別物で、男性のコミュニケーションが「見栄と競争」であるのに対して、女性のコミュニケーションが「共有と共感」であるということを経験として理解していなかった(それぞれ俺の勝手な定義です)。たとえば男性の場合は、「どちらがより優れているか」という動物的本能が常に潜在意識にあるので(と俺は解釈している)、自分の印象が悪くなる話(失恋、トラウマ、失敗談などなど)は、よっぽど仲の良い相手以外には語らない。笑い話になるレベルの話は別として。そのため、往々にしてプライベートな話(特に過去の話)はお互いにほとんどしない。悩み相談もしない。なぜかというと、「こんな悩みがある」ということを相手に告白するということは、自分の欠点や弱点を相手にさらけ出すことになってしまうから。実際、俺も男友達は沢山いるけど、彼らの家族や昔の彼女にまつわる話など、俺と出会う前の彼らの過去は全く知りません。極論すると、今の彼らを作り上げている過去のことは何も知りませんw 女性からすると上っ面の関係に見えてしまうかもしれない。どこか切った張ったの世界がある感じ。

ところが、女性の場合は自分の内側をどんどんさらけ出してお互いに共有し、その話に全員が共感することで連帯感を高め絆を深めるコミュニケーションを取る(だよね?)。そこが本質なので、実際には相手の意見はどうでもよく、とにかく共感するのがルールみたいなところがある。女子会とかも、男性がその場にいては言えない暴露話を共有し、「こんなことを共有してるウチラってマブダチだよね!」と確認する場として機能しているのではないかと思う。「新しい服を着ているのに気付いたら可愛いと言わなければならない(たとえ似合ってないと思っていても!)」という女性特有のルールはこの共有と共感のコミュニケーションの好例だと思うのだけど、これは男性にはとても滑稽なもので、そこが男性にとっては上っ面な関係に見える部分。お互いにグチを話すという行為も女性のコミュニケーションをよく象徴しているなぁと思う。実際、男性はお互いにグチ話をしないしね。それはやっぱり自分の弱点を晒すことになるから。

・・・と、前置きが長くなったのだけど(偉そうにこういうことを書くとディスられそうw)、男性と女性のこのコミュニケーションの違いを、当時は理解していなかった。だから、グチ話や悩み相談をされる時も、「ただ話を聞いて頷いて欲しい」「背中を押して欲しい」ということを相手が望んでいると知らず、理路整然と自分の意見(時には相手の考えを否定したり・・・もちろん相手のことを思って)を述べてしまい、結果的に何も変わらない相手を観察して「俺が割いた時間は無駄だったじゃねーか!」と思ってしまっていた。コミュニケーションのチャネルが一致していなかった感じ。だから、当時は「グチなんて話す暇があれば行動しろ」とか「どうせ何も変わらないんだから鏡に向かって話しとけばいいのに」みたいな結構酷いことを思っていたw

けど今はある程度大人になった(笑)ので、女性のコミュニケーションが「共有と共感」であることを知っている。今は女性の話を聞く際には自然とチャネルを切り替え、相手から求められない限りは極力自分の意見や解釈を述べず、ただ相手の話に傾聴する―ということができるようになった(昔よりはね)。そのおかげで、「この人はどんなことでどんな反応をするのだろう?」と、相手の話から透けて見える価値観を知る楽しみを覚えるようになった。そして、このコミュニケーション方法によってその人物のことをより深く知ることができるようになる、ということを体系的に理解できるようになった。このことに気付いた時から、昔に比べて自分の話で会話を独占することが少なくなり、そして上に述べたように他人やその人の持つ話に興味を持つことができるようになった。だから、彼女のグチもただ単にグチではなく、彼女という人間の中の一つのコンテンツのような感覚で楽しめたんだと思う。グチ話に対して「あーしんどかった」とか「この前はグチを聞いてもらったから今回は聞いてあげなきゃね」みたいな感覚を持つかどうかは、聞き手のコミュニケーションに対する考え方と、そして会話中のちょっとしたテクニックにかかってるんじゃないかな、ということをこの時間を振り返って思った。

あっという間に過ぎた二時間だったけど、振り返ってみるとこれだけの示唆に富んでいた。これもセレンディピティの賜物かな?w


―セレンディピティは、偶有性の海の中にある
http://matome.naver.jp/odai/2135172458847154701

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